伝記
アウグスト・セサル・サンディーノは、1895年5月18日に生まれ、1934年2月21日に没したニカラグアの革命家である。1927年から1933年にかけて、ニカラグアに駐留したアメリカ海兵隊に対する抵抗運動を指導した。アメリカ政府からは盗賊と見なされたが、その功績により、ラテンアメリカ民族主義の英雄とされ、「自由な人々の将軍」とも呼ばれた。
太平洋側のマサヤ県の寒村ニキノオモで、白人の中規模コーヒー地主ドン・グレゴリオ・サンディーノと、その農場で働いていた先住民の女中マルガリータ・カルデロンの間に、私生児として生まれた。のちにグレゴリオが結婚すると、アウグストを正式に息子と認知し、サンディーノは9歳まで母と暮らしたのち、父の家に移り住んだ。父は熱心な自由党派で、サンディーノも父の影響を受けて自由党派を名乗り、のちに護憲戦争が始まったときには、自由党軍の将軍として参戦する。私生児ではあったが長男として扱われ、当時それなりの知識人だった父の書斎の本をよく読んで学んだ。
17歳だった1912年7月には、アドルフォ・ディアス大統領に対する蜂起を鎮圧するため、アメリカ軍がニカラグアに介入するのを目撃した。工業学校に通ったのちコスタリカで技能工として働き、1921年にニカラグアへ戻ったが、酒場で酔った勢いで刃物を取り出し、著名な保守党派の息子タゴベルト・リバスの暗殺を試みてしまう。そのためニカラグアにいられなくなり、ホンジュラス、グアテマラへと逃れ、結局メキシコに行き着いた。メキシコではタンピコの港近くにあるスタンダード・オイルの精製所で働いた。模範的な労働者として妻子を養えるほどの収入を得る一方、労働争議を行うメキシコ人労働者の態度や、無政府主義、共産主義などの思想から影響を受けた。後年、西部劇のガンマンのような服装をしたのは、油田に出入りしていたテキサス人の上司の服装を真似たためといわれる。また、メキシコ人労働者にニカラグア人であることをなじられた屈辱が、愛国者としての意識が芽生えるきっかけになったようである。
父から、自由党のモンカーダ将軍が保守党のディアス政権に蜂起し、護憲戦争が始まったと知らせる手紙を受け取ると、急いで帰国した。金鉱山で働く者を中心に急ごしらえの軍を組織し、自由党軍とは別の奇襲作戦で保守党軍を攻めたが、モンカーダは彼を信用せず、サカサに不信を伝えたため、無名のサンディーノによる武器と軍の任命の要請は退けられた。しかし逃走する保守党兵から小銃を奪った後、他の自由党の指揮官たちが任命を認めた。1927年には北部のラス・セゴビアスで農民を集め、政府軍を攻めて成果を上げ、4月にはマナグアへ進む自由党軍の主力を助けた。だがアメリカが軍事介入を示して自由党の将軍たちに停戦を呑ませ、5月4日にエスピノ・ネグロの協定が結ばれた。
サンディーノはニカラグア民族主権防衛軍を組織し、アメリカ軍を不正規戦に引きずり込んだ。抵抗戦争の成功に伴い、コミンテルンも彼への支援を始めた。中華民国では、北伐の中でアメリカ海兵隊と衝突していた国民党が、彼の名を冠したサンディーノ旅団を編成している。最終的にアメリカ軍は撤退し、ニカラグア政府からも著しい譲歩を得たが、1934年、国家警備隊司令官アナスタシオ・ソモサ・ガルシア将軍によって殺害された。遺志はサンディニスタ民族解放戦線に引き継がれ、1979年に、ソモサ独裁政権は革命により打倒された。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・フランシス・ディロン (1934年没)
- ポール・ヴィエイユ (1934年没)
- アレクサンダー・ムンロー (1934年没)
- ヘンドリク・ペトルス・ベルラーヘ (1934年没)
- アリス・リデル (1934年没)
同じ地域に関係する人物
- Fernando Cardenal (2016年没)
- ルイス・ソモサ・デバイレ (1967年没)
- アレクシス・アルゲリョ (2009年没)
- クラリベル・アレグリア (2018年没)
- エデン・パストラ (2020年没)