伝記
ロベール1世は、フランス王ルイ8世と王妃ブランシュ・ド・カスティーユの三男で、のちのルイ9世の弟、ナポリ王シャルル1世の兄にあたる。1216年9月25日に生まれ、「善良王」の通称で呼ばれる。のちにカペー家の支流となるアルトワ家の祖である。
1226年に父が亡くなると、遺言によってアルトワ地方がロベールの領地と定められた。ロベールは21歳になった1237年まで摂政の下に置かれ、成人してから、兄である国王ルイ9世の贈与により、アラスとサン=トメール、およびその付属地を領地として受けた。ただし、レンスは除かれていた。この年、アルトワ伯となり、6月14日にコンピエーニュで、ブラバント公アンリ2世とマリー・フォン・ホーエンシュタウフェンの娘マティルドと結婚した。ロベールは、嫡男でない子が支流を興すときの習わしに従い、フランス王家の青地に金の百合の紋章に、母ブランシュにちなむ金の城を3つずつ描いた3つの垂れ飾りのある赤い帯を重ねて、自分の紋章とした。これは子孫に受け継がれた。1240年、皇帝フリードリヒ2世と争っていた教皇グレゴリウス9世から、帝冠をもちかけられたが、ロベールは皇帝の座を望まず断った。
1248年には、娘ブランシュが生まれた。1249年にはルイ9世の第7回十字軍に加わり、ダミエッタの占領にも加わった。十字軍はつぎにマンスーラへ進んだ。軍は運河の浅瀬を渡り、ロベールはテンプル騎士団を中心とする先陣を指揮して、対岸を守るイスラム側の部隊を破った。その際、敵の指揮官ファフルッディーン・ユースフが殺されたという。かつての養育係フルコー・デュ・メルルにせかされ、テンプル騎士団長ギヨーム・ド・ソナックの反対にもかかわらず、本隊を待たずにマンスーラへ突入し、エジプト軍を敗走させはじめて、市内に入り込んだ。国王の命令に背いて戦ったともいわれる。しかし、マムルークの将バイバルスが反撃を組織し、通りを防柵でふさいだため、先陣はほぼ全滅した。生き残った騎士はわずか5人であった。ジョワンヴィルによれば、ロベールは一軒の家にたてこもって、しばらく持ちこたえたあと、殺されたという。1250年2月8日、ロベールはマンスーラで戦死した。エジプトを征服したあかつきには、彼をエジプト王に擁立する話があったともいう。
ロベールの死後、1250年に息子ロベール2世が生まれ、のちにアルトワ伯となった。ブランシュは1269年にナバラ王アンリ1世と結婚し、1276年にはイングランド王族の初代ランカスター伯エドマンドと再婚した。妻のマティルドは、夫の死後、サン=ポル伯ギー3世と再婚した。
同じ年に亡くなった人物
- アルベリック (1250年)
- ヘルマン6世 (バーデン=バーデン辺境伯) (1250年没)
- ヴィラール・ド・オヌクール (1250年)
- ラティボル1世 (ポメラニア公) (1250年代没)
- Guillaume de Sonnac (1250年)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・メトワリー・アルシャアラウィ (1998年没)
- サーリフ (1249年没)