伝記
テレサ・デ・ポルトゥガルは、レオン王アルフォンソ9世の最初の妃で、のちにカトリック教会の福者となった女性である。1176年10月4日にコインブラで、ポルトガル王サンシュ1世と、アラゴン王家出のドゥルセ・デ・アラゴンの娘として生まれた。
1191年、テレサはいとこにあたるレオン王アルフォンソ9世と結婚した。二人はともに、ポルトガル王アフォンソ1世とマファルダの孫であった。この結婚で、1191年ごろに長女サンチャ、1192年か1193年に長男フェルナンド、1193年か1194年に次女ドゥルセが生まれた。しかし1196年、教皇ケレスティヌス3世は、近親婚を理由に二人の結婚の無効を宣言した。子どもたちは教皇によって嫡出子と認められ、フェルナンドは1214年に若くして亡くなるまで、レオン王国の継承者であり続けた。テレサは夫と別れてポルトガルに戻り、ロルヴン修道院の領主となった。それでもレオンに領地を持ち続け、王から年に4000モラビティーノの収入を受け、ビジャフランカ・デル・ビエルソも治めた。サンチャとドゥルセは、のちにビリャブエナのシトー会修道院の修道女となった。サンチャにはカスティーリャ王エンリケ1世やジャン・ド・ブリエンヌとの縁談があったが、どちらも破談となった。
1211年に父サンシュ1世が亡くなると、遺言に従って、テレサはモンテモル=オ=ヴェーリョの城といくつかの町、そこから得られる収入を受け取り、王妃の称号を使うことが許されるはずだった。ところが、権力を王に集中させようとしていた弟のアフォンソ2世は、遺言の執行を止めた。テレサがレオン王妃だったことで、広大な領地が分割して相続されると、国が二つに割れるおそれがあると考えたためである。遺言では、テレサの妹サンシャとマファルダにも土地と城が与えられることになっていたため、王女たちは近しい貴族と派閥を作った。その先頭に立った弟のペドロは、テレサの庇護のもとでレオンに迎えられ、トラス=オス=モンテスのいくつかの領地を手に入れていたが、最後にはアフォンソ2世に敗れた。1223年にアフォンソ2世が亡くなると、息子のサンシュ2世が問題を解決し、城の収入を伯母たちに与えた。そのかわりに、王妃の称号をやめて、城の管理者を意味するアルカイデの称号を用いるよう求め、争いは収まった。
1230年にアルフォンソ9世が亡くなると、王位の継承が問題になった。アルフォンソ9世は、テレサとの結婚が終わった後にベレンゲラと再婚して5人の子をもうけたが、この結婚も近親婚を理由に解消されていた。国王は、二度目の結婚で生まれた息子の継承を認めず、王国をテレサとの間の二人の娘に残すつもりだったという。テレサはこの争いを仲裁し、ベレンゲラの息子でカスティーリャ王となっていたフェルナンド3世が、レオンの王位を継ぐことを認めた。その後、テレサはロルヴン修道院に戻って修道女として数年を過ごし、誓願を立てた。1250年にロルヴンで亡くなった。1705年、教皇クレメンス11世は、妹のサンシャとともにテレサを福者とし、その88年後には妹のマファルダも福者となった。
同じ年に亡くなった人物
- Shihab al-Din Muhammad al-Nasawi (1250年(推定))
- ピエール1世 (ブルターニュ公) (1250年没)
- アルベリック (1250年)
- ヘルマン6世 (バーデン=バーデン辺境伯) (1250年没)
- エーリク4世 (デンマーク王) (1250年没)
同じ地域に関係する人物
- ドゥルセ・ベレンゲル・デ・バルセロナ (1198年没)
- ウラカ・デ・カスティーリャ (ポルトガル王妃) (1220年没)
- サンシュ1世 (ポルトガル王) (1212年没)
- Sancha of Portugal (1229年没)
- ペドロ・ヌネシュ (1578年没)