伝記
ファイサル1世は、第一次世界大戦期のオスマン帝国に対するアラブ反乱の指導者で、シリアの初代国王を経て、イラクの初代国王となった人物である。1883年5月20日にマッカで、のちにヒジャーズ王国の国王となるフサイン・イブン・アリーの三男として生まれた(1885年とする資料もある)。兄弟にはのちのトランスヨルダン初代国王アブドゥッラー1世がいる。少年時代をイスタンブールで過ごし、1913年にはオスマン帝国議会でジェッダの代表となった。第一次世界大戦が始まり、イギリス軍がバスラに上陸すると、アラブ人の間でもオスマン帝国の勢力をアラビア半島から一掃しようという機運が高まった。
1916年、ファイサルは軟禁されていたトルコを脱出し、父とともにオスマン帝国に反旗を翻した。同年10月には、イギリスの若い情報将校ロレンスと出会っている。1918年にはダマスカスに入城し、ダマスカスにアラブ人の新政府がつくられた。反乱のさなかのサイクス・ピコ協定の暴露を受け、オスマン帝国と極秘に和平交渉を行ったとも伝えられるが、これは協定を知った配下のアラブ人をなだめる意味もあり、ダマスカス陥落で無意味になったという。1919年のパリ講和会議には代表団を率いて出席し、大戦中に父とイギリスが交わしたフサイン=マクマホン協定の約束どおり、アラブ地域全体をハシミテ王国とするよう要求した。だがサイクス・ピコ協定との関係で受け入れられなかった。同年1月3日にはシオニズムの指導者ハイム・ヴァイツマンとファイサル・ヴァイツマン合意を結び、ユダヤ人とは友好的な関係を築いた。
1920年3月、ダマスカスのアラブ民族会議により、現在のシリアとレバノンにあたる地域を含むシリア・アラブ王国の国王に選ばれた。しかしフランスとの戦いに敗れて7月に王国は占領され、ファイサルはダマスカスを追放された。パレスチナやイタリアを経てイギリスに亡命し、その保護下に置かれた。反乱からシリア追放までの経験で、自らの限界と立場の弱さを思い知り、現実主義的な政治家になっていったという。1921年3月にはカイロ会議が開かれ、ガートルード・ベルらが主導して、イギリス委任統治領メソポタミアの創設と、ファイサルの国王即位が決まった。5月にいくつかの留保を付けてイラク王の地位を受け入れ、6月にイラクに上陸すると、数週間のうちに行われた「国民投票」で96%の支持を得て、8月23日に即位した。熱狂は乏しかったが、ほかに代わる案もなく、組織的な反対は起こらなかった。
1922年には、イギリスとの条約に反対する勢力を支援したため、初代首相が辞任した。その後ファイサルは虫垂炎で公務を離れたが、闘病中に条約反対派が弾圧され、イギリスの条約への強い意志を知ると、ガイラーニーを首相に復帰させて条約への支持を宣言した。イギリス=イラク条約は1924年にイラク側が批准した。1930年にはイギリスから独立の約束を得て、1932年10月に委任統治が終わり、イラク王国が成立した。ヌーリー・アッ=サイードをはじめ、旧オスマン軍の士官らが王政の中核となった。
1933年8月、自治を求めるアッシリア人をイラク軍とクルド人が虐殺する事件が起こり、国内では軍が歓迎されたが、ファイサルは体調を崩した。9月にスイスへ療養に向かったが、到着して1週間たたない9月8日に亡くなった。晩年の彼は、自らが築こうとした国家が分裂した社会という不安定な基盤の上にあることを思い、絶望したという。
同じ年に亡くなった人物
- ヘンリー・ヴァン・ダイク (1933年没)
- アリベルト・フォン・アンハルト (1933年没)
- クララ・ツェトキン (1933年没)
- ルイス・カムフォート・ティファニー (1933年没)
- アナガーリカ・ダルマパーラ (1933年没)
同じ地域に関係する人物
- アルベール・アンカー (1910年没)
- Camille Decoppet (1925年没)
- ルートヴィヒ・フォーラー (1921年没)
- アンタル・ドラティ (1988年没)
- コフィー・アナン (2018年没)