伝記
スブタイは、1175年あるいは1176年に生まれ、1248年に没したモンゴル帝国の軍人で、チンギス・カンの配下の「四狗」の一人に数えられる。兄は同じく将軍となったジェルメである。ウリャンカイ部の出身とされ、トナカイを飼う民で馬術に劣る異端者だったという話も伝えられるが、近年の研究は退けている。一家は何代にもわたってテムジン(のちのチンギス・カン)の家と結びつきがあり、父ジャルチグダイが苦境のテムジンたちに食べ物を届けたという話も伝わる。14歳で一族を離れてテムジンの軍に加わった。兄ジェルメは17歳で加わっていたという。
テムジンのケシクに入り、天幕の入口の警護を命じられた。「あなたの敵を、フェルトが風を防ぐように防ぎましょう」と述べたという。1197年、メルキトの陣営に単身で脱走兵を装って入り込み、敵の油断を誘って包囲させる策で、最初の独立した指揮をとったとされる。1206年のチンギス・カンの即位の際の功臣表では第51位に数えられ、千人隊長の地位を与えられた。1211年の金への遠征では先輩の将軍ジェベと組み、1212年には城を一気に攻め落とした。1216年か1217年には、アルタイ山脈で再起を図っていたメルキトの討伐を命じられ、鉄車を用いてチュイ川で勝利を収めた。メルキトの残党を追ってキプチャク草原に入ると、ホラズム軍とカラ・クムで遭遇し、一分遣隊で王自ら率いる精鋭軍と互角に戦って引き分けた。
1219年からのホラズム遠征では、ジェベとともにホラズム王ムハンマドを追って西へ進んだ。ガズヴィーンでは占領後に住民の攻撃を受け、およそ4万人を殺害した。1220年12月に王がカスピ海で没したのを知らないまま、北イランと南コーカサスを攻め、グルジアにも冬に攻撃を加えた。タブリーズでは市民の抵抗に遭って退却している。1222年後半、デルベントを越えてカフカス北麓に入り、キプチャク人を買収して連合軍を破った。1223年5月31日のカルカ河畔の戦いではルーシ諸侯とキプチャクの連合軍に大勝した。モンゴルとヨーロッパ世界の最初の軍事的接触である。その後ヴォルガ・ブルガールの強い抵抗に遭って東に戻り、イルティシュ川流域でチンギス・カンと合流した。
1228年からのオゴデイ・カアンの金遠征にも従軍した。1232年の三峰山の戦いではトルイとともに金軍を破り、同年4月に皇帝寧甲速のこもる汴京を包囲した。降伏を勧告された金が人質を差し出して和約を求めても、スブタイは自分の関知するところではないと答えて攻撃を続けたが、金の火薬兵器に阻まれて5月に包囲を解いた。同年8月に和平交渉の使節団が殺されて講和は決裂し、1233年に再び汴京を包囲した。城は食糧が尽き、金の将軍崔立が明け渡した。スブタイは兵の損害の報復に町の虐殺の許可をオゴデイに求めたが、耶律楚材の制止で、対象は金の帝室の人間だけとなった。
1235年のクリルタイでヨーロッパ遠征が決まると、長年の経験を評価され、総司令官バトゥの副官に任じられた。実質的な総司令官だったとも考えられている。1236年春にブルガールを攻め、1237年から翌年にかけてリャザン、ウラジーミル、スーズダリ、トヴェリなどを落とした。1240年にキエフを破壊し、1241年にハンガリーへ入ったバトゥの本隊と合流して、モヒの戦いでベーラ4世のハンガリー軍に勝った。同年にオゴデイが没して遠征は中止され、東に帰還した。その後はトゥラ河畔の遊牧地で暮らして1,100の封戸を有し、1248年に没した。死後、河南王に追封された。
同じ年に亡くなった人物
- サンシュ2世 (ポルトガル王) (1248年没)
- アブールハサン・サイード (1248年)
- ヨランド・ド・ドルー (ブルゴーニュ公妃) (1248年没)
- クニグンデ・フォン・ホーエンシュタウフェン (1248年没)
- シャムセ・タブリーズィー (1248年)
同じ地域に関係する人物
- トグス・テムル (1388年没)