HISTORICAL PERSON · 1247年没

ハインリヒ・ラスペ (テューリンゲン方伯)

テューリンゲン方伯。教皇に擁立されローマ王コンラート4世の対立王となり一時勝利したが、まもなく戦傷が元で死去しルードヴィング家男系は断絶した。

生涯
1247年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州 / ヴァルトブルク城)
出生地
—
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(テューリンゲン州)

伝記

ハインリヒ・ラスペは1204年、テューリンゲン方伯ヘルマン1世と、バイエルン公オットー1世の娘ゾフィアの子として生まれた。三男で、兄に方伯ルートヴィヒ4世、弟にコンラートがいる。「ラスペ」の名は、方伯家であるルードヴィング家の君主の弟によく付けられた名で、学問上は区別のためハインリヒ・ラスペ4世と呼ぶこともある。

1227年、兄ルートヴィヒ4世が第6回十字軍に向かう途上で亡くなると、ハインリヒは、5歳の甥である方伯ヘルマン2世の後見人となった。ヘルマン2世の母で、のちに聖女となるエリーザベトとは不和で、彼女をヴァルトブルク城から追放したと伝えられ、事実であろうと推測されている。1228年の初めにはブランデンブルク辺境伯の娘エリーザベトと結婚した。聖女エリーザベトが1231年にマールブルクで亡くなると、ハインリヒと弟のコンラートは、ドイツ騎士団をマールブルクに定住させた。1234年の夏、騎士団はコンラートの入団を受け入れた。コンラートは聖女の列聖に力を尽くし、1236年5月1日の列聖式には、ハインリヒと並んで皇帝フリードリヒ2世も出席した。1238年には、オーストリア公の妹ゲルトルートと再婚した。ヘルマン2世の後見は1239年まで続いたが、実権はハインリヒが握っていた。

1241年にヘルマン2世が急死し、ハインリヒは方伯の座を継いだ。後世には、甥を毒殺したのではないかという伝説も生まれたが、明白な証拠はなく、ハインリヒが関わった可能性は低いと考えられている。同じ年、ハインリヒはブラバント公アンリ2世の娘ベアトリクスと3度目の結婚をした。3度の結婚のどれでも子は得られなかった。同年にヨーロッパを襲ったモンゴル人との戦いにも参加したとされる。1242年には、ボヘミア王ヴァーツラフ1世とともに、フリードリヒ2世の未成年の息子コンラート4世の代理人に任命された。ハインリヒは、甥にあたるマイセン辺境伯家のハインリヒ3世を方伯の後継者と認めるよう、皇帝に働きかけた。

1245年、教皇インノケンティウス4世がフリードリヒ2世の破門と廃位を宣言すると、ハインリヒがその座に推された。マインツ大司教とケルン大司教がこれを支持した。1246年5月2日、少数の諸侯によって、ヴュルツブルク近郊のファイツヘーヒハイムで王に選ばれた。このため「聖職者の王」とあざけられた。コンラート4世が王位の放棄を拒んだので、ハインリヒの王位は宙に浮いた。1246年8月5日、ニッダの戦いでハインリヒはコンラート4世を破り、フランクフルトとニュルンベルクを手に入れた。しかし1247年の冬、ウルムとロイトリンゲンを包囲したとき、ロイトリンゲンの小競り合いで負傷し、ヴァルトブルクへ引き上げた。1247年2月16日、この城で亡くなった。遺体はアイゼナハ近郊のカタリーナ修道院の両親のそばに葬られ、心臓はエリーザベトをたたえて1235年に創建された、ドミニコ会の教会に置かれた。

ハインリヒの死でルードヴィング家の男系は絶え、テューリンゲンの継承戦争が始まった。姪のゾフィーが後継を主張し、マイセン辺境伯ハインリヒ3世との間で争われた。次の対立王にはホラント伯ウィレム2世が立てられたが、1256年に戦死し、ドイツは大空位時代に入った。

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