伝記
グスタフ・マイリンクは、1868年1月19日、ウィーンに生まれたオーストリアの小説家で、本名はグスタフ・マイヤーという。母はバイエルンの宮廷付き女優マリーア・マイヤーで、父はヴュルテンベルク王国の国務大臣カール・フォン・ファルンビューラーである。庶子として生まれ、出産は母の旅行中の出来事で、母は27歳、父は59歳だったという。同時代にはユダヤ系との噂もあったが、同名のユダヤ人女性と母が混同されたもので、実際にはユダヤ系ではないとされる。1874年からミュンヘンの小学校などに通い、1881年から2年間はハンブルクの高校に学び、1883年からプラハのギムナジウムに通った。以後約20年をプラハで過ごし、この町を作品に何度も描いている。
商科大学のころから神秘主義的なグループと交際し、1891年にはプラハに神知論的な集会所「青い星」を設立した。大学を出ると知人と出資して銀行を設立し、銀行家として働いた。1892年にヘートヴィヒ・マリーア・ツェルトルと結婚したが、結婚生活はすぐに破綻し、離婚を望んでも妻の同意はなかなか得られなかった。同じ年の1892年8月14日、24歳のマイリンクは拳銃を頭に当てて自殺を図ろうとしたが、そのとき部屋の戸の下から『死後』と題した小冊子が差し入れられ、これを機に神智学やカバラ、東洋の神秘思想の研究と、ヨーガなどの実践に向かったと伝えられる。生涯にわたって様々な信仰団体や神秘主義者のグループと接触を保ち、ブラヴァツキー夫人やアニー・ベサントの著作にも関心を寄せ、ルドルフ・シュタイナーとも面識があった。
1902年、詐欺の嫌疑で拘留された。心霊術に従って銀行を動かしているという噂が背景にあったとされる。2か月後に釈放されたが、事業仲間が離れて銀行は閉鎖された。この前後に作家オスカール・A・H・シュミッツと知り合い、小説を書き始めた。『ジンプリチスムス』誌などに風刺的な短編を載せ、1903年に最初の作品集『熱い兵士』を出し、翌年には『蘭』を出した。1904年からの約2年はウィーンで暮らし、雑誌『デア・リーベ・アウグスティーン』を編集して、シュミッツやマックス・ブロートらの協力を得た。ここで博学者フリードリヒ・エックシュタインと知り合い、その広い知識から大きな影響を受けた。ハンブルクの女優フィロメーナ・ベルントと再婚し、二人の子をもうけた。生活のために翻訳も手がけ、5年ほどでディケンズの著作15巻を独訳したほか、キプリングらも訳した。
第一次世界大戦のなかばに『ゴーレム』と『緑の顔』を発表して成功を収めた。『ゴーレム』は、プラハの宝石細工師ペルナートを主人公とする幻想小説で、獄中の体験が反映されているとされる。経済的に余裕ができ、1920年にミュンヘン南方のシュタルンベルク湖畔に移り、死ぬまで暮らした。ミュンヘンのカフェに入り浸り、フランク・ヴェーデキントやハインリヒ・マンと親交を結んだ。戦争には反対し、ドイツ民族主義者から非難されたという。『ゴーレム』などの成功により、ハンス・ハインツ・エーヴェルス、カール・ハンス・シュトローブルと並ぶドイツ語圏の怪奇幻想小説の三大作家の一人に数えられた。ほかの代表作に『ドイツ俗物の魔笛』『ワルプルギスの夜』『西の窓の天使』などがある。1932年12月4日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジィップ (1932年没)
- ジャクリーヌ・マルヴァル (1932年没)
- イスマエル・ネリ (1932年没)
- フランシスコ・カルバハル (1932年没)
- エドゥアルト・ジーファース (1932年没)
同じ地域に関係する人物
- ヘルマン・プライ (1998年没)
- ヨースト・アンマン (1591年没)
- ヘルマン・パウル・ミューラー (1975年没)
- ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・バイエルン (1949年没)
- アルフレート (ザクセン=コーブルク=ゴータ公) (1900年没)