伝記
アリスティード・ブリアンは、1862年3月28日、フランス西部のナントで中産階級の家に生まれた政治家である。ナントのリセに通い、1877年にはジュール・ヴェルヌと親しくなったとされる。パリ大学で法律を学び、卒業後は急進的な運動に身を投じて、サンディカリスムの新聞に寄稿し、ラ・ランテルヌ紙の編集にも携わった。その後はプティット・レピュブリック紙に移り、ジャン・ジョレスと協力して新しい新聞の創刊にも加わっている。労働組合運動の旗振り役でもあり、1894年のナントでの労働者大会では、ジュール・ゲードの支持者を抑えて労働組合の考え方を採択させた。このころからフランス社会党の指導者の一人となった。
何度かの落選を経て、1902年に下院議員に当選した。左派連合を強く支持し、右派の反動的な議員を抑えようとした。議員になった当初から政教分離の問題に関わり、1905年の政教分離法の準備にあたった委員会の報告者を務めた。報告はたちまち注目を集め、法案は小さな修正だけで成立にこぎつけたとされる。同法の主要な起草者だったブリアンは、法の施行にも関わろうとして、1906年のサリアン内閣で公教育・宗教相に就く。議会での成功は完全だったが、ブルジョワ内閣に入ったことで統一社会党から除名された。ジョレスと違い、社会主義者は急進派と改革で積極的に協力すべきだと主張した。本人は無神論者だったという。
1908年から翌年にはクレマンソー内閣の司法相を務め、1909年7月24日にクレマンソーの後を受けて首相となり、1911年3月まで在任した。この最初の内閣では、1910年4月に労働者・農民の年金法を成立させ、農村と都市の約800万人の労働者に強制の疾病・老齢保険を導入した。1909年には出産前後の女性の雇用を保障する法律や、賃金を定期的に支払う法律もできた。1912年からは司法相をはさみ、1913年1月から3月にも首相を務めた。第一次世界大戦が始まった1914年8月に再び司法相となり、1915年冬にはセルビアを助けようと、サロニカへの派遣を後押しした。同年10月、フランス軍の攻勢の失敗とブルガリアの参戦を受けて、再び首相になった。以後も1921年、1925年、1929年と首相に就き、生涯で計11回の首相を務めた。
1925年の首相期にはルール占領から撤退し、同年10月にロカルノ条約を調印して、この功績で1926年にドイツのシュトレーゼマンとともにノーベル平和賞を受けた。1927年4月6日にはアメリカに戦争違法化条約を提案し、元国務長官ケロッグの逆提案を経て、1928年8月27日にパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)が調印された。1929年には「ヨーロッパ連合」の創設にも力を注いだが、世界恐慌後に台頭したナチズムなどの国家主義の動きに、努力は阻まれた。1930年6月にはフランス軍をラインラントから引き揚げた。1931年5月の大統領選挙ではドゥメールに敗れた。1932年1月に政界を引退し、同年3月7日にパリで死去した。ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』に出る少年大統領ブリアンは、彼の名からとられたという。
同じ年に亡くなった人物
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- ルネ=ルイ・ベール (1932年没)
- ジィップ (1932年没)
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- フレデリック・ターナー (1932年没)
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- ジュール・クラルティ (1913年没)
- シルヴァン・レヴィ (1935年没)
- ヴァンゲリス (2022年没)
- オルガ・ボズナンスカ (1940年没)