伝記
ヴィルヘルム・オストヴァルトは、1853年9月2日にロシア領のリガ(現在のラトビア領)で生まれたバルト・ドイツ人の化学者である。父は桶屋を営み、母はパン屋の娘で、三人兄弟の二番目だった。子どものころから自宅で実験を行い、自分で本を読みながら花火や写真に取り組んで、化学に興味を持つようになった。シュテックハルトの『化学の学校』に書かれた実験にも没頭した。1872年にドルパット大学(現在のタルトゥ大学)に入り、1875年に卒業すると、カール・シュミットの研究室で無給の研究者として働き始めた。物理学研究所でもアルトゥール・フォン・エッティンゲンのもとで学び、1877年ごろにはそこの有給の助手となった。1878年にシュミットを指導教官として博士号を取得し、1879年にはシュミットの有給の助手となった。化学親和力の問題を研究し、質量作用や電気化学、化学反応の動力学も調べた。
1880年4月24日に結婚して5人の子をもうけ、長男ヴォルフガング(1883年-1943年)はのちにコロイドの研究を行った。1881年にリガ工科大学の化学の教授となり、1887年にはライプツィヒ大学に移って、世界で初めて物理化学の専任教授に任じられた。1906年に退くまでそこで教え、1904年から1905年にはハーバード大学の最初の交換教授も務めた。弟子には、アーサー・ノイズやウィリス・ホイットニー、池田菊苗らがいる。1901年にはアルベルト・アインシュタインが研究職を求めて応募したが断った。のちに二人は互いに敬意を抱くようになり、オストヴァルトは1910年と1913年にアインシュタインをノーベル賞に推薦している。生涯に500を超える研究論文と約45冊の著書を発表した。
触媒の研究では、アンモニアを酸化して硝酸を安価に作るオストヴァルト法を考案し、1902年に特許を出願した。この反応は64年も前に知られていたが、原料のアンモニアを大量に作る技術がなかったため注目されなかった。ハーバーとボッシュがアンモニアを大量生産する方法を完成させたことで状況は大きく変わり、二つの技法の組み合わせが肥料や爆薬の大量生産を可能にした。ドイツは第一次世界大戦でそれらを大量に必要とした。この方法は現在も硝酸の工業的製法として重要である。多形体については「オストヴァルトの段階則」を見いだした。モルという言葉も1900年ごろにオストヴァルトが最初に用いたといわれる。一方で原子論には反対し、ジャン・ペランのブラウン運動の実験を見てようやく受け入れたと、ゾンマーフェルトとの会話で述べている。1909年、触媒作用・化学平衡・反応速度に関する業績でノーベル化学賞を受けた。物理化学の確立者の一人とされる。
1906年に大学を退いてからは、哲学や芸術、政治に深く関わった。ベルタ・フォン・ズットナーの平和活動に協力し、1911年には一元論同盟の会長となった。絵を描くのが最大の趣味で、自分で絵の具を作り、晩年には色彩に熱中して、のちにマンセルや、パウル・クレー、モンドリアンらに影響を及ぼしたとされるオストヴァルト・システムを考えた。国際補助語にも関心を持ち、エスペラントを学んだのち、イド語に転向した。1911年には紙の寸法の規格も考案している。1932年4月4日、ライプツィヒの病院で死去し、のちにリガの墓地に改葬された。
同じ年に亡くなった人物
- エドガー・ウォーレス (1932年没)
- マルコム・ホイットマン (1932年没)
- ジョルジュ・バルビエ (1932年没)
- ポール・ドゥメール (1932年没)
- レジナルド・フェッセンデン (1932年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク (ザクセン王) (1904年没)
- ヴァーツラフ2世 (1192年没)
- エリーザベト・フォン・バイエルン (1443-1484) (1484年没)
- ヨハン・クリストフ・アーデルング (1806年没)
- Bernd Jakubowski (2007年没)