伝記
オットー・ヴァラッハは、1847年3月27日、ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)に生まれたドイツの化学者である。父ゲルハルトはプロイセン王国の役人で、ユダヤ系の家系がルター派に改宗した家の出とされる。母オティリエはプロテスタントのドイツ人だった。父はその後シュテッティンへ、さらにポツダムへと転勤した。ポツダムではギムナジウムに通い、文学と美術史を学んだが、この二つは生涯の趣味となった。このころ、両親の家で個人的な化学実験も始めている。
1867年からゲッティンゲン大学で化学を学んだ。当時、同大学の有機化学部門を率いていたのはフリードリヒ・ヴェーラーである。1学期だけベルリン大学のアウグスト・ヴィルヘルム・フォン・ホフマンのもとで学んだのち、1869年にゲッティンゲン大学から博士号を授与された。1870年にボン大学へ移り、1889年まで薬学の教授を務め、ケクレに師事して共同研究を行った。1889年からは1915年までゲッティンゲン大学の教授だった。博士課程の学生には、ジーフェルツやハワースがいた。
ボンでケクレとともに行ったのは、精油に含まれるテルペンの体系的な分析である。当時、単離に成功したテルペンはごく少なく、構造もよくわかっていなかった。混合物の融点を測って比べると、物質が同一かどうかを確かめられるという技法はすでにあった。この技法を使うには、通常は液体であるテルペンを結晶質の化合物に変えなければならない。そこで、一部のテルペンがもつ二重結合に何かを付加するなど、段階的に誘導体を作り、最終的に結晶質の化合物を得た。さらに、環状で不飽和のテルペンが起こす転位反応を調べ、未知のテルペンが転位して既知のテルペンになるようすをたどることで構造を把握した。こうした方法によって、テルペンの体系的研究への道を切り開いた。
テルペンとピネンの名づけを行い、ピネンについて初めて体系的な研究を行ったのも彼である。テルペンはイソプレンのオリゴマーだとする説を唱え、これはのちにイソプレン則と呼ばれて、さまざまなテルペンの構造解明に役立った。1880年にヴァラッハ転位、1887年にはロイカート・ヴァラッハ反応を見いだした。名を冠したものには、ヴァラッハ分解もある。著作には、1880年の『化学分析表』のほか、自らの研究をまとめた、テルペンに関する化学書『テルペンと樟脳』(1909年)がある。ラセミ体は対応するキラル体より密度が高くなるという「ヴァラッハの法則」でも知られ、この法則は結晶データベースの解析によって実証された。
1889年にコテニウス・メダルを受け、1910年に脂環式化合物の先駆的研究によってノーベル化学賞を受賞した。1912年にはデービー・メダルも授与されている。1931年2月26日にゲッティンゲンで没し、同地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームス・マッケンジー (1931年没)
- ノラ・ニールソン・グレイ (1931年没)
- イグナーツ・ウルバン (1931年没)
- 濱口雄幸 (1931年没)
- マービン・ハート (1931年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・ハインリヒ・ゲルハルト・メーリンク (1792年没)
- フリードリヒ・クーラウ (1832年没)
- ヴィルヘルム・ラーベ (1910年没)
- ペーター2世 (オルデンブルク大公) (1900年没)
- ゾフィー・ドロテア・フォン・ブラウンシュヴァイク=リューネブルク (1726年没)