伝記
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・マヤコフスキーは、1893年7月19日(ユリウス暦7月7日)、ロシア帝国領グルジアの寒村(現在のバグダティ)に生まれた詩人で、ロシア・アヴァンギャルドの未来派を代表する。両親はともにコサックの出であった。1906年に父を亡くすと家族とモスクワへ移り、マルクス主義の文学に傾倒して、ロシア社会民主労働党に加わった。のちにボリシェヴィキの一員となったが、そのために3回逮捕された。投獄中に詩作を始め、バイロンやシェイクスピア、トルストイ、アンドレイ・ベールイらを読んだという。1910年に釈放されると、ダヴィド・ブルリュークと出会い、その才能を見出された。ヴェリミール・フレーブニコフらと立体未来派を形成し、1911年にモスクワ絵画・彫刻・建築学校に入ったが、政治活動を問われて数年後に中退した。
1912年には未来派の文集『社会の趣味への平手打ち』に参加し、そこに収められた「夜」「朝」は政治的なメッセージを帯びていた。第一次世界大戦では志願したが兵役を断られ、軍の自動車学校に勤めた。1917年の十月革命を目撃すると、赤軍に加わった水兵を鼓舞する「左翼行進曲」を発表した。それ以前のロシア詩では音節・アクセント詩法が盛んだったが、マヤコフスキーは別のリズムをつくり、日常語や俗語、奇抜な言葉づかいを取り入れて、鮮烈な抒情と言語実験を結びつけた。革命後は風刺劇『ミステリヤ・ブッフ』(1918年)で好評を博し、共産党のプロパガンダ・ポスターの制作にも関わり、評論や映画のシナリオも書いた。1923年には芸術左翼戦線(レフ)を結成し、ソ連初期の芸術界を率いた。
私生活では、1915年頃に知り合った女優リーリャ・ブリークと深い関係になった。彼女はすでに劇作家オシップ・ブリークの妻だったが、オシップはマヤコフスキーの才能を買って関係を認め、のちには3人での同棲が始まった。当時のソ連では、これが「時代に先がける新しいモラル」と受け止められたという。恋愛関係そのものは1923年に終わったが、外遊の時を除き、その後も夫妻と生活を共にした。1925年には西欧とアメリカを半年ほど巡り、ニューヨークで亡命ロシア人のモデル、エリー・ジョーンズと親しくなり、のちに娘エレーナが生まれた。1928年のパリでは亡命ロシア人の女性と結婚を考えるほどになったが、相手が帰国に同意せず実現しなかった。ブリーク夫妻には秘密警察での活動歴があり、3人の住まいには1927年頃から多くの秘密警察員が出入りしていたことが、後の研究で分かっている。
1929年にはロシア・プロレタリア作家協会から激しい批判を受け、翌1930年2月にはその協会への加入を表明した。この時期は精神状態がひどく悪化していたと、関係者の多くが回想する。4月12日に女優ヴェロニカ・ポロンスカヤとの感情の対立から遺書を書き、14日朝、自室で銃弾に倒れているのが見つかり、そのまま死亡した。死因は当局により自殺と発表され、遺書には「誰も責めないでくれ」と記されていた。葬儀には15万人が参列し、レーニン、スターリンの葬儀に次ぐ規模となり、ノヴォデヴィチ墓地に埋葬された。
1935年にリーリャがスターリンに顕彰を求める書簡を送ると、スターリンは彼を「ソビエト時代のもっとも優れた、もっとも才能ある詩人」と評し、モスクワの広場がその名に改められた。ソ連崩壊後にはこの広場も元の名に戻り、評価は定まっていない。グラスノスチ以後は死因をめぐり謀殺説も唱えられたが、遺品の鑑定は自殺説を裏付ける結果となっている。
同じ年に亡くなった人物
- 日下部金兵衛 (1930年代没)
- バーケンヘッド卿 (1930年没)
- エドワード・ホセ (1930年没)
- シルビオ・ゲゼル (1930年没)
- ジョン・ピーター・ラッセル (1930年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィクトル・ママトフ (2023年没)
- ラリサ・レイスネル (1926年没)
- オレグ・ペンコフスキー (1963年没)
- Alfred Kuchevsky (2000年没)
- グリゴリー・クリーク (1950年没)