HISTORICAL PERSON · 1930年没

アーサー・バルフォア

イギリスの保守党政治家・哲学者。1902年から1905年まで首相を務め、第一次世界大戦中は外務大臣などを歴任して、バルフォア宣言に名を残した。

生涯
1930年没
死亡地
イギリス連邦(サリー / ウォキング)
出生地
イギリス連邦(ホィッティンガム)
出典
世界地図
イギリス連邦(サリー)

伝記

アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1848年7月25日、スコットランドのイースト・ロージアン州に生まれたイギリスの政治家、哲学者である。のちに初代バルフォア伯爵となった。父は大富豪で大地主、庶民院議員も務めた人物で、家は18世紀末に祖父が東インド会社との貿易で巨富を築いた旧家である。母ブランチは第2代ソールズベリー侯爵の娘で、のちに首相となる第3代ソールズベリー侯爵は叔父にあたる。ワーテルローの英雄ウェリントン公爵が代父を務め、その名にちなんでアーサーと名づけられた。姉エヴェリンは物理学者の第3代レイリー男爵に、エレノアは哲学者ヘンリー・シジウィックに嫁いでいる。7歳の頃に父を亡くし、1861年からイートン・カレッジで、1866年からケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで哲学を学んだ。哲学研究にのめり込み、家の財産を弟に譲って大学に残ろうかと考えたこともあったという。しかし叔父の勧めと、高貴な家に生まれた者は責任を負うべきだという母の説教があり、最終的に政界を選んだ。

1874年に保守党から出馬して庶民院議員に初当選し、1878年には外務大臣となった叔父の議会担当秘書官を務め、同年のベルリン会議にも同行した。1880年に保守党が野党になると、ランドルフ・チャーチル卿らと独自のグループ「第四党」を作ったが、叔父を批判する場面では擁護に回るのが常だった。1886年の第二次ソールズベリー内閣にスコットランド担当相として入り、1887年にはアイルランド担当相に就いた。この人事は「身贔屓」として政界に衝撃を与えたとされ、バルフォアは知的な優男と見られて、新聞から「ミス・バルフォア」などとあだ名された。ところが強圧法を成立させるとアイルランドの民族運動指導者を次々と逮捕し、容赦のない弾圧から「血塗られたバルフォア」と呼ばれて恐れられた。一方で1890年には、アイルランドの小作人が土地を買うのを助ける「バルフォア法」を成立させている。

1891年に第一大蔵卿と庶民院院内総務に抜擢され、1895年に政権を奪回した内閣でも同じ職に就き、中国分割をめぐる交渉や、中等教育の普及を目指すバルフォア教育法の制定を主導した。1902年7月にソールズベリーに代わって首相となり、1903年にウィンダム法でアイルランドの土地購入を促進し、1905年には国防強化に力を注いだ。外交ではロシアを牽制するためフランスに接近し、日露戦争中には日英同盟を更新・強化した。しかし関税問題や南アフリカの中国人労働者をめぐる対応で支持を減らし、1905年12月に総辞職した。その後も保守党党首にとどまり、1906年1月の総選挙で惨敗すると貴族院を拠点に政府への抵抗を主導し、1909年11月にはロイド・ジョージの「人民予算」を貴族院で否決させた。これを契機に貴族院の権限を縮小する議会法案が出され、新貴族の任命という圧力を受けて1911年8月に可決を認めたため、党内の求心力を失い、11月に党首を退いた。

第一次世界大戦中はアスキス内閣で海軍大臣を、ロイド・ジョージ内閣で外務大臣を務め、バルフォア宣言に名を残した。1919年に枢密院議長となり、1922年に伯爵に叙せられた。ボールドウィン政権の1925年にも枢密院議長に再任されたが、1929年に政界を引退し、翌1930年3月19日に没した。アマチュアの哲学者としても活躍し、宗教に関する哲学書を多く著した。

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