伝記
クリスティアーン・エイクマンは、1858年8月11日、オランダのナイケルクで、地元の学校の校長クリスティアーン・エイクマンと妻ヨハンナ・アリダ・ポールの間に、7人きょうだいの末っ子として生まれた。翌1859年に一家はザーンダムへ移り、父は新設された高等初等教育学校の校長になった。エイクマンと兄たちはそこで初等教育を受けている。兄のヨハンは1877年から1885年まで日本政府のお雇い外国人として来日し、『日本薬局方』の制定など日本の薬学の発展に貢献した人物である。この兄は薬学者とも物理化学者ともいわれる。
1875年に予備試験を終えると、アムステルダム大学の軍事医学校の学生となり、オランダ領東インド軍の軍医になる教育を受けて、すべての試験を優秀な成績で通過した。1879年から1881年まで生理学教授トマス・プレースの助手を務め、その間に神経の分極に関する論文を書いて、1883年7月13日に優等で博士号を得た。同じ年にオランダ領東インドへ赴任し、衛生担当の軍医としてスマラン、ジャワ南岸のチラチャップ、スマトラ北部のパダン・シデンプアンで勤務した。チラチャップでマラリアにかかり、健康を損ねたため、1885年に病気休暇でヨーロッパに戻った。
これは彼にとって幸運な出来事になった。アムステルダムの研究室やベルリンのロベルト・コッホの細菌学研究所で働くうちに、東インドへ向かう前のペケルハーリングとヴィンクラーに出会い、二人が率いる脚気の調査団の助手に加わることになったのである。脚気は当時その地域で猛威をふるっていた。1887年に二人が帰国する際、バタヴィアの軍病院に臨時に設けられた研究室を常設にする提案が認められ、ジャワ人医師養成のための学校が、インドネシア初の医学校として設立された。エイクマンはその初代校長に任命されて軍務を離れ、研究に専念できるようになった。1888年1月から1896年3月まで医学研究所の所長を務め、熱帯に住むヨーロッパ人の生理を調べて、血液や代謝などに変化がないことを示し、馴化をめぐる憶測に終止符を打った。
最大の業績である脚気の原因の発見は偶然だった。研究室のニワトリに脚気の症状が出ていることに気づいたのが発端である。数か月間、軍の食事の残りの米を与えていたが、新しい料理人が軍の米を民間の動物に与えることを拒み、別の米を買うことになった。ニワトリが脚気になったのは精米を与えていた期間で、玄米に戻すと数日で回復した。エイクマンは、精米には玄米にある食事成分が欠けており、それが奪われると脚気になると考え、これを「抗脚気因子」と呼んだ。ただし当初は、未知の細菌が原因だと疑っていたという。貧弱な食生活が脚気の原因になることを実証したこの仕事は、ビタミンの発見への道を開いた。
1898年からはユトレヒト大学の教授を務めた。1929年にはフレデリック・ホプキンズとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。その研究は、カシミール・フンクによるビタミン研究や、鈴木梅太郎が抗脚気成分を固形物として初めて取り出す仕事にもつながったとされる。1930年11月5日、ユトレヒトで死去した。
同じ年に亡くなった人物
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