伝記
土御門天皇は、日本の第83代天皇(在位1198年から1210年)である。諱は為仁という。1195年12月4日(1196年1月3日とも)に、後鳥羽天皇の第一皇子として生まれた。母は、源通親の養女で、承明門院と呼ばれる源在子である。
1198年(建久9年)2月18日、父後鳥羽天皇の譲位を受けて、3歳で践祚した。皇太子には立てられていなかった。同じ年の3月に即位し、後鳥羽上皇による院政が行われた。京都では、外祖父の源通親が別当として権力をにぎり、鎌倉では、翌1199年に源頼朝が亡くなって、北条時政による御家人の政治が行われた。しかし後鳥羽上皇は、土御門天皇の穏やかな性格が、幕府との関係では心もとないと見て、譲位を迫った。1210年12月12日、異母弟の順徳天皇に譲位して、上皇となった。後鳥羽上皇が順徳天皇を偏愛し、自分を退位させたことについて、胸のうちに鬱屈した思いがあったが、それを言葉や行いに表すことはなかったという。
1221年(承久3年)の承久の乱のとき、土御門上皇は倒幕の計画に加わらず、むしろ諫める立場だったため、幕府からは不問とされた。しかし、後鳥羽、順徳の二人の上皇が遠い島に流されたのを悲しみ、自ら望んで土佐国へ移った。同行者には源雅具らがいた。母の源在子や源定通らに、涙ながらに見送られ、10月10日に、冬の厳しい気候のなかを、土佐に旅立った。二人の上皇らの配流が7月に決まったのに対し、土御門上皇の配流が決まったのは、3か月以上たった閏10月10日であった。そのため、乱に積極的に関わらなかった彼の配流は、本人の意思であったとする『吾妻鏡』や『増鏡』の記述が事実と考えられている。一方で、『愚管抄』は結局は流罪であったと記し、乱に関わっていたが何らかの理由で遅れて配流されたのではないか、とする見方もある。1223年(貞応2年)5月、土佐は遠すぎるという理由で、より都に近い阿波国に移された。鎌倉幕府は、阿波に宮殿を造営させるなど、二人の上皇とは違って厚遇した。
1231年(寛喜3年)10月に出家し、同月11日に阿波国で崩御した。37歳であった。阿波国の里浦で火葬され、遺骨は承明門院によって、山城の金原に移された。11年後の1242年、京都にいた皇子の邦仁王が、後嵯峨天皇として即位し、以後はその子孫によって皇位が継がれた。
歌人としてすぐれ、「新三十六人撰」のひとりである。『土御門院御百首』『土御門院御集』などをあわせて、554首が知られている。『増鏡』は、元服のようすを「いとなまめかしく うつくしげにぞおはします」と記し、端正な容姿であったことがうかがえる。土御門院に仕えた女房の日記『土御門院女房日記』が、冷泉家時雨亭文庫から見つかっている。
同じ年に亡くなった人物
- ジャラールッディーン・メングベルディー (1231年没)
- ヴワディスワフ3世ラスコノギ (1231年没)
- アブド・アッラティーフ・アルバグダーディー (1231年)
- パドヴァのアントニオ (1231年没)
- ルートヴィヒ1世 (バイエルン公) (1231年没)