伝記
ヤークート・アル・ハマウィーは、1179年に生まれ、1229年8月20日に没した、イスラーム世界の地理学者であり詩人である。幼いころに奴隷として買い取られ、学問を修めて見聞を広め、奴隷の身分から解放されたのちに辞典を著した。当時の奴隷には宝石の名がつけられることが多く、ヤークートはコランダムを意味する。解放後は、奴隷時代の名を嫌って、ヤアクーブと自称したが、この名は一般には認められなかった。ビザンツ帝国生まれのギリシア人の両親のもとに生まれ、アナトリア半島またはコンスタンティノープルで誕生した。幼いときに捕虜となり、バグダードで奴隷として売りに出され、ハマーの商人アスカルに買われた。
ヤークートは、アスカルがつけた家庭教師から学問を習い、アスカルの代理として、オマーン、シリア、ペルシアへ旅した。また、見習いとして、会計と商売を学び、ペルシア湾のキーシュ島へ、2、3度、旅した。1194年に、アスカルがある争いから給料を止めたため、ヤークートは写本の仕事で生計を立てた。また、文法学者のウクバリーのもとで学んだ。そのあいだにも、多くの本を読み、学者たちの講義を聞いて知識を深め、しばらくしてアスカルと和解した。5年後、再びアスカルの使いでキーシュ島に行き、バグダードに帰ると、書店を開いて、著作活動を始めた。アスカルの死後、独立した。
1215年にダマスクスを訪れたとき、4代カリフのアリーの悪口を言ったため、アリー寄りの人々に襲われることになった。命からがら逃げ出した彼は、バグダードには戻らず、中央アジアのメルヴに向かった。メルヴでは2年間学び、図書館で資料を集めた。1218年ごろから、地理学辞典の構想を練り始め、1218年末にホラズム地方のヒヴァを訪れたが、1219年に、モンゴル帝国がホラズム・シャー朝を攻撃するという知らせを聞くと、研究の資料を抱えて、あわてて西に避難した。彼は、カスピ海の東の図書館に残る、大きな、そして大部分が失われた文学遺産の証人であり、モンゴルの侵略者による破壊の前に、それらを訪れた最後の人々のひとりだった。1220年には、イラク北部のモースルにたどり着き、1224年に辞典の初稿を書き上げた。1227年には、アレクサンドリアにおり、そこからアレッポに移った。1228年に、『地理学辞典』(『諸国集成』)を完成させ、死の直前まで改訂を続け、1229年8月20日に没した。一説では、アレッポ郊外のキャラバンサライで没したという。
『地理学辞典』には、アラビア文字の字母順に、イベリア半島から中央アジア、インドの一部に至る地域の町や山、河川が並べられ、地理にとどまらず、歴史、人種、自然誌も記されている。アラブ世界の学者の人名事典である『学者文人事典』と、同じ名称の地名を並べた『類語辞典』も著し、この3つの作品で名声を得た。ヤークートの事典類には、依拠した文献が明記され、すでに原本が失われた古書の記述も引用されているため、その重要性は高い。彼は、新しい概念を生み出す学者ではなく、既存のデータを整理して、後世の人が利用しやすい形で伝える学者と評価されている。そのほか、アラブ民族の系図の研究も現存するが、著作の大部分は散逸している。
同じ年に亡くなった人物
- ヘラルト3世 (ゲルデルン伯) (1229年)
- ブランシュ・ド・ナヴァール (1177-1229) (1229年没)
- サッカーキー (1229年没)
- Sancha of Portugal (1229年没)
- ブックスヘーヴェデンのアルベルト (1229年)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・スミス (考古学者) (1876年没)
- Mavia (425年没)
- アブ・フセイン・フセイニ (2023年没)
- Asia Ramazan Antar (2016年没)
- アク・サンクール・アル=ハジブ (1094年没)