HISTORICAL PERSON · 1228年没

ムスチスラフ・ムスチスラヴィチ

武運公と呼ばれたルーシの公で、アレクサンドル・ネフスキーの外祖父。ノヴゴロド公やガーリチ公を務め、リピツァの戦いで勝利し、ハンガリー軍も破った。カルカ河畔の戦いではルーシ諸公軍を主導した。

生涯
1228年没
死亡地
ウクライナ(キーウ / トルチェスク)
出生地
—
出典
世界地図
ウクライナ(キーウ)

伝記

ムスチスラフ・ムスチスラヴィチは、1176年より前に生まれ、1228年に没したルーシの公で、アレクサンドル・ネフスキーとレフ・ダニーロヴィチの母方の祖父にあたる。聖名はフョードルといい、「武運公」「勇敢公」などと呼ばれた。トリポリエ公、トロペツ公、ノヴゴロド公、ガーリチ公、トルチェスク公を歴任し、才覚のある司令官で、何度も会戦に勝った。父はスモレンスクのムスチスラフ・ロスチスラヴィチで、おそらく父の死後に生まれ、母はリャザンの公女であった。祖父はキエフ大公ロスチスラフ1世である。1193年と1203年に、ポロヴェツ族への遠征で勇敢さをたたえられ、その名はルーシ全土に広まった。そのころ、ポロヴェツ族のハン、コチャンの娘マリヤと結婚した。

1207年に、トルチェスクの南の警備に任じられたが、チェルニゴフ公フセヴォロドの軍に追われ、おじのリューリクから受けていたトロペツへ逃れた。1210年にノヴゴロド公となり、ウラジーミル大公フセヴォロド3世との戦いを始めた。ノヴゴロドへ向かう途中、フセヴォロド3世に包囲されていた要衝トルジョークを救った。1212年と1214年には、チュヂ族とリヴォニア帯剣騎士団への遠征を行い、成功させた。1214年、キエフ大公フセヴォロドを破り、おじのムスチスラフ・ロマノヴィチを大公位に就けた。その後、クラクフ公レシェク1世の招きにより、ガーリチ公となった。ガーリチ公への着任は、1215年とも1219年ともされる。ノヴゴロド公位は、1218年に、息子のスヴャトスラフに譲った。

1216年2月、ウラジーミル大公国のヤロスラフが、トルジョークを占領し、ノヴゴロドへの食料輸送を封鎖した。ムスチスラフは、ノヴゴロドとスモレンスクの軍を指揮し、リピツァの戦いで、ウラジーミル大公国の軍を破った。その結果、ウラジーミル大公位は、同盟者のコンスタンチンのものとなり、ムスチスラフは娘をヤロスラフに嫁がせた。ガーリチに着くと、娘アンナを、ダニール・ロマノヴィチに嫁がせて同盟を結んだ。ダニールはレシェク1世と対立していた。ムスチスラフの不在中に、ハンガリーとポーランドの連合軍がガーリチを包囲し、ダニールが防衛に当たった。1220年か1221年の冬、ムスチスラフは、ポロヴェツ族とルーシの公の補助部隊とともに、ドニエプル川流域からガーリチへ進軍した。ハンガリー軍と途上で遭遇し、数時間の戦いののちに勝った。1221年の春には、再びガーリチを攻め、門の近くでハンガリー軍を破って、ガーリチに入った。ハンガリー王アンドラーシュ2世の子カールマーンは捕らえられ、トルチェスクに送られた。アンドラーシュ2世は、息子を取り戻すため、交渉に応じ、アンドラーシュ2世の子アンドラーシュと、ムスチスラフの娘マリヤとの婚姻が結ばれて、ムスチスラフはガーリチの支配を固めた。

1223年、モンゴル軍に対するカルカ河畔の戦いに臨み、ルーシの諸公の軍を主導したが、ルーシ側は敗れた。ムスチスラフは、逃れた約9人の公のうち、名がはっきり記される唯一の人物である。ドニエプル川の舟の綱を切って、追撃を防いだという。1224年には、ポーランドとの戦いで、レシェク1世の軍に敗れた。ムスチスラフは、1227年まで、ガーリチを治めたが、貴族の陰謀で、娘婿のハンガリー王子アンドラーシュにガーリチを譲り、トルチェスクに引退した。1228年、ポロヴェツ族のコチャン、キエフ大公ウラジーミル4世らと連合を組み、ダニールとポーランドの軍と戦い、同年に亡くなった。死の前に、修道者の大きな誓いを立てたという。

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