伝記
グスタフ・シュトレーゼマンは、1878年5月10日にベルリンで生まれたドイツの政治家で、ヴァイマル共和政期に首相と外務大臣を務めた。家はビールの醸造や販売を営み、宿屋も兼ねていた。兄弟のなかでギムナジウムに進んだのは彼だけだったとされ、歴史を好んでナポレオンやゲーテといった偉人の伝記を読んだ。1897年にアビトゥーアに合格し、ライプツィヒ大学で史学と文学を学んだが、のちに経済学へ転じた。学生団体でも活動し、1901年にはベルリンの瓶ビール産業を扱った論文で博士号を得ている。同年から、地元のチョコレート産業組合でロビイストとして働き始めた。
1902年にザクセンの工業家組合の設立に加わり、翌年には大学時代の学友の妹で、実業家の娘ケーテと結婚した。彼女はユダヤ人だった。同じ年、フリードリヒ・ナウマンの政治思想に共感して国民自由党に入り、政治活動を始めた。1906年にドレスデン市議となり、1907年には最年少で帝国議会議員に当選した。しかし社会政策を重んじたため、産業界の意向を代弁する党内右派と対立し、1912年には議席を失った。その後は実業界に身を置き、アメリカ合衆国やカナダを訪れたが、1914年に帝国議会に再選されて政界に復帰した。立場はリベラル保守でありながら君主制の支持者でもあり、ドイツ帝国の拡張政策にはおおむね賛成して、第一次世界大戦や無制限潜水艦作戦にも賛成した。1917年には副党首に就任したが、国民自由党と進歩党の合同はまとまらなかった。
1918年のドイツ革命後は、ドイツ民主党への参加を拒まれたため、国民自由党の右派を集めてドイツ人民党を結成した。「世界におけるドイツの威信回復」を掲げ、社会民主党には批判的だったが、ヴァイマル共和政そのものは否定しなかった。1923年8月、フランス軍がルール地方を占領し、インフレが亢進するなかで首相兼外務大臣に就任し、保守派・中道派・社会民主党による大連立政権を組織した。ハンス・ルターやヒャルマル・シャハトとともにレンテンマルクへの切り替えを実施し、インフレを沈静化させた。しかしミュンヘン一揆の首謀者の処遇や、ザクセン州への対応が批判されて社会民主党が連立を離れ、不信任案が可決されて3か月で首相を辞した。
その後は複数の内閣で外務大臣を務め、フランスとの関係正常化に努めた。1924年にドーズ案で賠償金の減額に成功し、1925年にはロカルノ条約を結んで、ドイツは国際連盟への加盟を認められた。この功績で1926年、フランス外相ブリアンとともにノーベル平和賞を受賞した。1928年にハイデルベルク大学から名誉博士号を贈られたが、激務で体調を崩しがちになり、1929年10月3日、脳卒中で急死した。直後に世界大恐慌が始まったため、その死はヴァイマル共和国の平和な時代の終わりを告げる画期ととらえられている。イギリスやフランスと和解し欧州統合の先駆けを作った政治家として記憶される一方、本人はヴェルサイユ条約の改正を目指し、ポーランドには領土問題で強硬な姿勢を崩さなかったとされる。執務服にディレクターズスーツを導入したことから、大陸ヨーロッパではこの服を「シュトレーゼマン」と呼ぶことがある。子息のウォルフガング(1904年〜1998年)は法律家となり、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の支配人を長く務めた。
同じ年に亡くなった人物
- Walther Katzenstein (1929年没)
- ハムザ・ニヤージー (1929年没)
- Otto Liebe (1929年没)
- オールドフィールド・トーマス (1929年没)
- ヴィクトリア・フォン・プロイセン (1866-1929) (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク・コルベ (1947年没)
- Ernst Friedrich Gilg (1933年没)
- アウグスト・エンデル (1925年没)
- フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン (1828-1885) (1885年没)
- アントニ・ヘンリク・ラジヴィウ (1833年没)