伝記
ジョルジュ・バンジャマン・クレマンソーは、1841年9月28日にフランス西部ヴァンデ県のムイユロン=アン=パレで生まれ、1929年11月24日にパリで没した政治家、ジャーナリストである。首相を1906年から1909年と、1917年から1920年の2期務めた。父のバンジャマンは代々医師を出した家の出身だが、診療はせず領地と投資で暮らし、政治活動家でもあって、息子に学問への愛と急進的な政治への傾倒、カトリックへの嫌悪を植えつけたという。母はプロテスタントの信者で、父は無神論者であった。
ナントのリセで学んだのち、パリで医学を学び、1865年に学位論文で医学博士となった。若い頃からパリで政治活動と執筆に携わり、1862年にはデモを呼びかけるビラを貼ったとして帝政の警察に逮捕され、77日間投獄された。この経験がナポレオン3世の体制への憎しみを深めたとされる。失恋の後にアメリカへ渡り、1865年から1869年までニューヨークで医療を営みつつ、パリの新聞のために政治記事を書いた。南北戦争後の復興やアメリカの民主主義を取材し、アメリカの民主的理念への信頼と妥協の感覚を得たという。1869年6月に教え子だったメアリー・プラマーとニューヨークで結婚し、フランスへ戻った。
1870年にパリの18区長となり、1871年2月に急進共和派としてセーヌ県選出の国民議会議員となった。パリ・コミューンの設立法案を提出し、のちに政府とコミューンの調停を試みたが失敗に終わり、区長と議員を辞した。1876年に再び代議院議員となって急進派の指導者として活躍し、1880年に日刊紙を発行して政治評論家としての名声を築いた。自らは政権を取らないまま、ジュール・フェリーの植民地政策を攻撃し、清仏戦争での失態を利用してフェリー内閣を崩壊させた。ブーランジェ将軍を一度は入閣させたが、将軍が野心をあらわにすると支持を撤回し、批判の急先鋒となった。パナマ運河疑獄への関与を疑われたことなどで人気を失い、落選して政界を離れた。
ドレフュス事件ではドレフュス擁護の論陣を張り、エミール・ゾラを支援して、1898年1月13日に大統領あての公開告発文「我弾劾す」を新聞に掲載した。1902年に元老院議員となり、1906年にサリアン内閣の内務大臣としてストライキの鎮圧に軍を投入して社会主義派と決裂した。同年10月に首相となり、軍備拡張や帝国主義政策を推進して、イギリス、ロシアと三国協商を結んだ。
1917年、第一次世界大戦の西部戦線が膠着し、敗戦主義の空気が見られるなか、ポアンカレ大統領に請われて再び首相に就き、断固とした戦争政策を貫いた。1919年のパリ講和会議では厳しい対独強硬論を唱え、多額の賠償を主張してヴェルサイユ条約に調印した。1920年の大統領選挙に敗れて引退した。パリ講和会議に日本全権として出席した西園寺公望は、パリ留学時代に同じ下宿で過ごした親友であり、その友情が会議での日本の立場の保持に役立ったと伝えられる。一方、日本代表の演説の際に、聞こえるような声で「あのチビは何を言っているのか」と発言したとする逸話も伝わる。パリの地下鉄シャンゼリゼ=クレマンソー駅やフランスの空母クレマンソーは、彼の名にちなむ。画家クロード・モネの親友で、モネの『睡蓮』は彼の提案で描かれたとされる。日本の香合を愛して約3000点を集め、1976年にモントリオール美術館でその収集品が発見された。
同じ年に亡くなった人物
- カレル・ファン・デ・ウステイン (1929年没)
- Otto Jaekel (1929年没)
- Jaroslav Goll (1929年没)
- ミハイル・ミハイロヴィチ (1929年没)
- ウォルター・ボールドウィン・スペンサー (1929年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・アルフォンス・ローラン (1854年没)
- エドゥアール・モルティエ (1835年没)
- フランソワ・ド・バルテルミー (1830年没)
- クリスチャン=ジャック (1994年没)
- エチエンヌ・ジョデル (1573年没)