伝記
セオドア・ウィリアム・リチャーズは、1868年1月31日に生まれ、1928年4月2日に没したアメリカ合衆国の物理化学者である。原子番号の大きな原子の原子量を正確に求めたことで知られ、アメリカ人として初めてノーベル化学賞を受賞した。ペンシルベニア州ジャーマンタウンの出身で、父のウィリアムは風景画家、母のアンナは詩人であった。幼少期にはフランスとイギリスをめぐり、大学に入る前は主に母から教育を受けた。
ある夏、ロードアイランド州ニューポートでハーバード大学の教授ジョサイア・パーソンズ・クックと出会い、小型の望遠鏡で土星の環を見せてもらった。数年後、リチャーズはクックの研究室で学ぶことになる。1878年からの2年間は一家でヨーロッパ、主にイングランドで過ごし、そこで科学への関心を育んだ。アメリカに戻ると、1883年に14歳でハバフォード大学に入学し、1885年に理学士の学位を取った。その後ハーバード大学に進んで1886年に文学士となり、大学院に進んで、1888年に化学の博士号を取得した。学位論文の主題は、水素に対する酸素の相対原子量の測定で、指導教官はクックであった。続く1年間はドイツに留学し、ヴィクトル・マイヤーに師事した。
帰国後はハーバードで助手、講師、助教授を務め、1901年に教授となった。1903年には同大学の化学部の学部長に就き、1912年には新設されたウォルコット・ギブズ記念研究所の所長となった。1896年に結婚して、娘1人と息子2人をもうけた。娘の夫は化学者のジェームズ・ブライアント・コナントで、息子は2人とも自殺したという。
研究の半分は原子量に関するもので、大学院生だった1886年に始まり、同年には酸素と銅の原子量の決定を手がけた。のちの報告によれば、リチャーズと学生たちは55の元素の原子量を決定した。原子量の決定で犯しやすい誤りとして、ある種の塩が気体を吸収しやすいことや、沈殿に異質な溶質が混じりやすいことを明らかにしている。その注意深さを示す例として、ツリウムの原子量を測るため、ツリウムの臭素酸塩を1万5千回も再結晶させたと伝えられる。
自然に産した鉛と、放射性崩壊で生じた鉛の分析を依頼された際には、両者の原子量が異なることを示した。元素の質量が単一でないことを化学分析で初めて示したもので、同位体という概念を支持する証拠となり、この功績により1914年にノーベル化学賞を受賞した。そのほか、原子の圧縮率、溶解熱と中和熱、アマルガムの電気化学的特性なども研究した。低温での電気化学的ポテンシャルの研究は、ネルンストの熱力学第三法則の基盤の一つとなり、二人の白熱した議論もその成果につながった。比濁計や断熱熱量計も発明している。
受賞や栄誉も多く、1910年にデービーメダル、1912年にウィラード・ギブズ賞、1914年にアメリカ化学会会長、1916年にフランクリン・メダル、1917年にアメリカ科学振興協会会長、1919年から1921年までアメリカ芸術科学アカデミー会長、1922年にラヴォアジエ・メダルなどを得ている。原子量の測定は当時重要な業績だったが、その後の測定精度の向上で塗り替えられ、現代では質量分析計などで質量と同位体の存在度の両方を測定できる。
美術と音楽を趣味とし、余暇にはスケッチ、ゴルフ、ヨットを楽しんだ。1928年4月2日にマサチューセッツ州ケンブリッジで世を去った。ある子孫によれば、慢性の呼吸障害とうつ病に苦しんでいたという。
同じ年に亡くなった人物
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- Jan Sztolcman (1928年没)
- アンドリュー・フィッシャー (1928年没)
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