伝記
ピョートル・ニコラーエヴィチ・ヴラーンゲリは、1878年8月15日(新暦8月27日)に、ロシア帝国領リトアニアのコヴノ県ノヴォアレクサーンドロフスクで生まれた。バルト・ドイツ系の名門貴族の男爵家の出で、一族には北極探検家のフェルジナント・ヴラーンゲリ提督や、普墺戦争で活躍したプロイセンのフリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥がいる。1896年にロストフの実科中学校を、1901年にサンクトペテルブルクの鉱山大学を卒業して鉱山技師の教育を受けたのち、近衛騎兵連隊に勤務し、1902年に近衛騎兵少尉に任官した。一時は軍を離れ、イルクーツク州で総督の命じる特別任務にも就いた。1904年2月に日露戦争が始まると再び軍に志願し、ザバイカル・コサック軍の連隊で戦って四等聖アンナ勲章を受け、同年12月に中尉となった。
第一次世界大戦では騎兵隊の指揮官として戦い、1914年10月13日には帝国最高の軍事勲章である聖ゲオルギー勲章四等を受けた最初の将校の一人となった。同年12月に大佐に昇進し、1915年10月にザバイカル・コサック軍の第1ネルチンスク連隊長に任じられた。連隊はガリチアでオーストリア軍に大勝し、とくにブルシーロフ攻勢ではその活躍が目立った。1917年1月に少将に昇進し、夏のズブルチ川の防衛戦での功績により再び聖ゲオルギー勲章を授けられた。ブレスト=リトフスク条約でロシアが大戦を離脱すると、任務を辞してクリミアのヤルタの別荘で暮らしたが、1917年末にボリシェヴィキに逮捕された。釈放されるとキエフへ逃れ、パウロー・スコロパードシクィイ将軍のウクライナ国政府に協力した。1918年8月に軍務へ戻る決意をして、クラスノダールを拠点とする反ボリシェヴィキの義勇軍に参加し、同年末には第二次クバーニ作戦の功績で中将に昇進した。
1919年1月からはカフカース軍の司令官となり、ロシア南部を転戦して、ツァリーツィンの大規模戦闘にも加わった。しかし、軍の方針をめぐって総司令官デニーキンと対立し、1920年2月8日に司令官を辞してコンスタンティノープルへ向かった。同年3月、デニーキンが残存兵力をクリミアへ退却させ、亡命を決意すると、4月に軍事委員会が南ロシアの全権をヴラーンゲリに委ね、セヴァストポリで南ロシア軍総司令官に選ばれた。5月11日には軍を「ロシア軍」と改称し、新たな独立共和国の建設を試みた。白軍はそれまで農民の支持を得られずにいたが、彼は土地を農民に分配する土地改革を打ち出し、支持を得ようとした。フランスからは事実上の承認を取り付けたものの、諸外国からの支持は乏しかった。
ポーランド・ソビエト戦争が終わって赤軍の全勢力がクリミアへ向けられると、ロシア軍は北ターヴリヤやペレコープ・チョーンガルの戦闘で兵力の半数を失った。11月14日、ヴラーンゲリは残存兵力と従う市民を艦隊に乗せてクリミアを去り、イスタンブール、チュニジアのビゼルトなどを経てユーゴスラビアへ亡命した。1924年にはセルビアのスレムスキ・カルロヴツィでロシア全軍連合を設立し、亡命白軍関係者の大半を組織した。1927年9月に家族とブリュッセルへ移って鉱山技師として働き、1928年4月25日に同地で急死した。チフスのためとされたが、直前に姿を消した執事の兄弟に毒殺の嫌疑がかけられており、ソ連のスパイだったと信じられている。遺体はベオグラードの正教会墓地に葬られた。死去の年には、回想録『手記』が発表された。
同じ年に亡くなった人物
- ハラム・テニソン (1928年没)
- ウィリアム・オブライエン (1928年没)
- リチャード・F・アウトコールト (1928年没)
- エドワード・モーンダー (1928年没)
- ミハイル・サヴォフ (1928年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン・ジャド (2009年没)
- モーリス・カレーム (1978年没)
- ジュール・ダネタン (1888年没)
- フェルナン・クノップフ (1921年没)
- ピエール・アルメル (2009年没)