伝記
ベレンガリア・デ・ポルトゥガルは、ポルトガル王サンシュ1世と王妃ドゥルセの娘で、デンマーク王ヴァルデマー2世の2番目の妃となった人物である。生まれた年は1194年とも、1198年ごろともいわれる。名は、母方の祖父であるバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世に由来する。母は1198年に没し、サンシュ1世とドゥルセには11人の子があった。ベレンガリアは、きょうだいのなかでも幼い子で、ブランカと双子であったかもしれない。
幼いころは、父の宮廷で兄弟姉妹とともに育った。8歳から10歳のころ、コインブラ近くのロルヴァン修道院に送られ、20歳ほど年上の姉テレサのもとにあずけられた。テレサは、レオン王アルフォンソ9世との結婚が血縁を理由に1206年に教皇によって無効とされ、この修道院に引きこもっていた元の王妃である。1211年に父が没すると、兄のアルフォンソ2世は、父が兄弟、とくに姉妹に与えた広い領地や収入を取り上げようとし、長引く相続争いとなった。教皇インノケンティウス3世が間に入るまで、戦いは続いた。ベレンガリアはこの争いのなか、1211年から1212年ごろにポルトガルを離れた。兄のフェルナンドは、1212年1月にパリで、フランドル女伯ジャンヌと結婚し、フランドル伯、エノー伯となった。ベレンガリアは、この兄とともにポルトガルを出たと考えるのが一般的である。
1214年5月に、ベレンガリアは、「勝利王」ヴァルデマー2世と結婚した。ヴァルデマー2世の最初の妃ダグマール(ボヘミア王オタカル1世の娘)は、1212年に出産で亡くなっていた。結婚は、王の妹でフランス王フィリップ2世と不仲であった王妃インゲボルグの紹介によるとされる。当時のデンマークは、西の国境をめぐる敵国との関係から、フランドルとの友好を急いでおり、兄フェルナンドは、イングランド王ジョンや皇帝オットー4世らとともに、フランスに対抗する北海の同盟をつくろうとしていた。ベレンガリアは、「たいへん美しい」と言われ、教会や修道院にいくつか寄進をしたが、王妃としての記録はほとんど残っていない。冠をかぶったことが知られる最初のデンマーク王妃でもある。
ダグマールは、いまも多くの詩歌が伝えられるほど親しまれた王妃で、ブロンドの髪をしていた。対照的に、ベレンガリアは、黒い瞳と漆黒の髪をもつ美女であったと伝えられる。デンマークの人々は新しい王妃の民謡をつくり、ヴァルデマー2世が重い税を課した責任は彼女にあると非難した。しかし税は王の戦費のためで、王妃のためではなかった。のちのデンマークの民謡や年代記では、彼女は「ベンゲルド」の名で、理想化された前の王妃ダグマールに対する、冷酷で利己的な人物として現れ、その名は性格の悪い女性の代名詞になった。しかし現在の歴史家は、同時代の史料にこの悪い評判の根拠はないとみている。1219年のヴァルデマー2世のエストニア遠征で、現在も使われているデンマーク国旗が初めて掲げられたと伝えられる。1221年3月27日、ベレンガリアは子を死産して亡くなった(ペストによる病死との説もある)。リングステズの聖ベント教会に葬られた。夫とのあいだには、のちにデンマーク王となるエーリク4世、アーベル、クリストファ1世と、ブランデンブルク辺境伯ヨハン1世の妃となった娘ソフィアがいた。
同じ年に亡くなった人物
- アリックス・ド・トゥアール (1221年没)
- ナイムディン・クブラ (1221年没)
- ハインリヒ3世 (リンブルフ公) (1221年没)
- ディートリヒ (マイセン辺境伯) (1221年没)
- ドミニコ (1221年没)
同じ地域に関係する人物
- ラスムス・バルトリン (1698年没)
- エーダム・ゴトロプ・モルトケ (1792年没)
- セーレン・セーレンセン (1939年没)
- アイナー・ヘルツシュプルング (1967年没)
- ヨハン・ルズヴィ・ヘイベア (1860年没)