伝記
アンジェラ・イザドラ・ダンカンは、モダンダンスの開拓者として知られるアメリカ出身のダンサーである。生年は1877年5月26日とも1878年5月27日ともされる。サンフランシスコで、ジョゼフ・チャールズ・ダンカンとメアリー・イザドラ・グレイ夫妻の4人きょうだいの末っ子として生まれた。兄にオーガスティンとレイモンド、姉にエリザベスがいる。生まれて間もなく、父は一家の銀行の破綻をめぐって調べを受けて起訴された。陪審は無罪としたが、父の不貞と金銭のスキャンダルに怒った母は離婚し、一家は貧しくなった。母は子どもたちとオークランドに移り、お針子とピアノ教師をして生計を立てた。イザドラは6歳から10歳まで学校に通ったが、窮屈に感じてやめ、きょうだいとともに近所の子どもにダンスを教えて稼いだ。母から音楽の基礎を教わり、早くから古典舞踊を学んだが、その慣習的な動きに満足できず、自由な舞踊を思い描くようになった。
1896年、ニューヨークのオーガスティン・デイリーの劇団に加わったが、すぐに失望して上下関係の少ない環境を求めた。バレエの教室にも通ったが、型どおりの稽古には幻滅したという。アメリカでは認められないと感じ、1898年にロンドンへ移った。富裕層の客間で踊り、大英博物館のギリシャの壺やレリーフから着想を得た。その収入でスタジオを借りて舞台の作品を作り、パリではルーヴルと1900年の万国博覧会に刺激を受けた。一方、1899年に一家でヨーロッパに渡り、1900年にパリでデビューしたとも伝えられる。フランソワ・デルサルトに強い影響を受け、古代ギリシャの壺やパルテノンの壁画からも感化を受けて、当時のギリシャ・リバイバルの波に乗って新しい踊りを生み出した。衣装はギリシャ風のチュニックで、靴を履かず裸足で踊った。1902年にはロイ・フラーに誘われてヨーロッパ各地を巡演し、批評家の評価は割れたものの、独特の様式で人気を得た。
ベルリンとパリ、さらにロシア革命後のモスクワにダンス学校を創立し、「裸足のイザドラ」の名で呼ばれて、身体表現そのものを変えたといわれる。演出家のエドワード・ゴードン・クレイグとは恋愛関係にあった。ロシアでは特に知られ、1905年にはニコライ2世の前で踊った。正確な日付は不明だが、血の日曜日事件の2日後にサンクトペテルブルクに来て葬列を目にしたと記しており、1905年1月の可能性が高い。ミュンヘンの「芸術家の家」で公演が計画されたとき、ダンスは芸術の殿堂にふさわしくないとフランツ・フォン・シュトゥックに反対されたが、彼の家を訪ねて4時間にわたり熱く議論して公演を認めさせた。大のカメラ嫌いで、舞踊を記録した映像は屋外で隠し撮りされた1本しか残っていない。
1927年9月14日、フランスのニース近郊で、助手席に乗っていた自動車が発進した際、首に巻いた長いスカーフが車輪に巻き込まれ、転倒して首の骨を折り死去した。遺灰はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。彼女の舞踊は即興的な面が多く、一定の理論を持たなかったため死とともに途絶えたと思われがちだが、実際には学校で弟子が育ち、メアリー佐野らによって今も形を変えながら踊り継がれている。近代舞踊への影響は高く評価され、1968年にはヴァネッサ・レッドグレイヴ主演の伝記映画『裸足のイサドラ』が作られた。
同じ年に亡くなった人物
- Rachel Beer (1927年没)
- バルトロメオ・ヴァンゼッティ (1927年没)
- ウィリアム・バーンサイド (1927年没)
- Elizabeth Maria Molteno (1927年没)
- Pedro Nel Ospina Vazquez (1927年没)
同じ地域に関係する人物
- オノレ・デュルフェ (1625年没)
- ブルース・チャトウィン (1989年没)
- ムハンマド・ベン・アーラファ (1976年没)
- Francois Bonlieu (1973年没)
- シャルル・ヴァネル (1989年没)