伝記
アルブレヒト・コッセルは、1853年9月16日、北ドイツのロストックで生まれたドイツの医学者・生化学者である。フルネームはルートヴィヒ・カール・マルティン・レオンハルト・アルブレヒト・コッセルという。父は商人でプロイセン王国の領事を務めたアルブレヒト・コッセル、母はクララであった。ロストックのギムナジウムに通い、少年のころから化学と植物学に強い関心を示した。1872年にストラスブール大学の医学部に進み、ドイツで唯一の生化学の講座を率いていたフェリクス・ホッペ=ザイラーに師事した。アントン・ド・バリー、ワルダイヤー、クント、バイヤーらの講義も聴いている。学業はロストック大学で終え、1877年にドイツの医師資格試験に合格した。1878年にロストック大学を卒業したともされる。
卒業後はストラスブールに戻り、ホッペ=ザイラーの研究助手となった。当時の師は、1869年にフリードリヒ・ミーシャーが膿の細胞から初めて化学的に取り出した酸性の物質に強い関心を持っていた。この物質はたんぱく質と違ってリンを多く含み、酸性が強く、それまでの細胞物質とは異なっていた。コッセルは、ヌクレインと呼ばれるこの物質がたんぱく質の成分とそうでない成分からなることを示し、後者を取り出して記述した。これがのちに核酸と呼ばれるようになったものである。1881年には核酸と分解産物に関する研究を発表している。1883年にストラスブールを離れ、ベルリン大学の生理学研究所の化学部門の主任となり、オイゲン・バウマンの後任として、エミール・デュ・ボア=レーモンの下で働いた。
核酸の研究はこの後も続けられ、1885年から1901年にかけて、アデニン、シトシン、グアニン、チミン、ウラシルの5つの有機化合物を取り出して命名した。これらは今日、核酸塩基と総称され、DNAとRNAの安定した分子構造を形づくる。1895年にはマールブルク大学の生理学教授兼生理学研究所長となり、たんぱく質の化学組成やペプトンへの変化などの研究を始めた。1896年にヒスチジンを発見し、アルギニンやリシンなどのヘキソン塩基を定量的に分けられる古典的な方法を編み出した。また、茶やカカオ豆に含まれる薬物テオフィリンを初めて取り出した人でもある。1901年にはハイデルベルク大学に移って、たんぱく質研究所の所長となり、その研究はたんぱく質分子がポリペプチドであるという発見を予見していたとされる。1895年から亡くなるまで、『生理化学雑誌』の編集も務めた。
1910年、細胞生物学、とくに核酸を中心とする細胞核の化学組成の研究により、ノーベル生理学・医学賞を受け、授賞式は12月10日に行われた。1911年の秋にはジョンズ・ホプキンズ大学のハーター講演に招かれ、妻ルイーゼと娘ゲルトルートを連れて渡米した。講演題は「たんぱく質」で、各地の大学でも講義をした。ニューヨークでは新聞記者の取材を受け、英語は非常に上手で謙虚な人柄が記事に繰り返し描かれたという。この渡米が生涯で唯一のアメリカ訪問であった。著書に『人体の組織とその顕微鏡的観察』や『生化学の問題』、『化学と生理学の関係』がある。物理学者として知られるワルター・コッセルの父でもある。1927年7月5日に没した。ロストック大学には彼の名を冠したアルブレヒト・コッセル神経再生研究所がある。
同じ年に亡くなった人物
- ベンジャミン・デイドン・ジャクソン (1927年没)
- Emile Albrecht (1927年没)
- ジャドソン・ハーモン (1927年没)
- アルマン・ギヨマン (1927年没)
- Shote Galica (1927年没)
同じ地域に関係する人物
- キーラ・キリロヴナ (1967年没)
- ハンス・ベルント・ギゼヴィウス (1974年没)
- フリードリッヒ・アウグスト・クヴェンシュテット (1889年没)
- フェオドラ・フォン・ザクセン=マイニンゲン (1890-1972) (1972年没)
- フロレスティーヌ・ド・モナコ (1897年没)