伝記
フアン・グリスは、1887年3月23日にマドリードで生まれたスペイン出身の画家で、フランスで活動してキュビスムを代表する一人となった。本名はホセ・ビクトリアーノ・ゴンサレス=ペレスという。裕福な家庭の13番目の子で、父は文具・革製品の店を営んでいた。幼いころから絵を好み、1902年に両親の勧めでマドリードの学校の工業デッサン科に入った。地元の新聞に挿絵を寄せ、学校をやめた1904年から1905年にかけては、若きピカソの師でもあった画家ホセ・モレノ・カルボネロのもとでアカデミックな絵画を学んだが、これには関心を持てなかったという。
1906年、フアン・グリスの名を使うようになった彼はスペインを離れてパリに出た。はじめは宿に滞在し、のちに洗濯船と呼ばれる集合アトリエに移って、ピカソ、詩人のアポリネール、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモンらと知り合った。1907年にはファン・ドンゲンのアトリエを引き継ぎ、これを1922年まで使っている。1908年にリュシー・ベランと結婚して息子が生まれたが、1911年に妻と別れた。暮らしはつつましく、スペインの雑誌やパリの新聞に風刺画を描いて生計を立てた。ピカソを通じて批評家のモーリス・レーナルや画家のドラン、ブラック、ヴラマンクとも出会い、ピカソのアトリエでは「アヴィニョンの娘たち」に感嘆した。
油彩を始めると、画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーの目にとまった。最初の作品として知られるのは1910年の静物画「サイフォンと瓶」である。この年の暮れに詩人ピエール・ルヴェルディと出会い、レーナルとともに終生グリスを支持する批評家となった。1912年にはアンデパンダン展に3点を出品し、ピカソへのオマージュも含まれていたが、批評家からは独自性を評する声と「全面的キュビスム」と嘲る声の両方が上がった。この年にバルセロナで初めてスペインで作品を展示し、2点を売っている。1913年にはカーンワイラーと専属契約を結び、アポリネールが著書『美学的省察 キュビストの画家たち』で一章を割いた。同年の夏にはセレで過ごし、のちに2番目の妻となるジョゼット・エルパンと知り合い、画面に貼り紙を取り入れるようになった。
第一次世界大戦が始まると、イタリア旅行中だったカーンワイラーはドイツからの動員令を無視してスイスに逃れ、パリに作品の在庫を残したまま画家たちを支えられなくなった。短い戦争で済むと見たグリスはコリウールにとどまったが、収入を失って困窮し、スタインらの援助は専属契約との兼ね合いから断って11月にパリへ戻った。カーンワイラーとの契約は合意の上で解消され、数か月後に画商のレオンス・ローザンベールと契約した。戦争の重苦しさから逃れるように制作に打ち込み、1916年にはジョゼットの出身地ボーリュー=レ=ロシュに滞在して数週間で十数点を描いた。1918年にはアポリネールの葬儀に参列するためパリへ戻っている。ガートルード・スタインは3点の作品を購入して忠実な顧客・友人となり、コリウールで出会ったマティスとも親交を結んだ。作風は、キュビスムのなかでも色彩に富み、形はわかりやすく、黄金分割や色の反転を意識的に用いるなど理論を重んじるものである。ピカソとブラックがキュビスムから離れた後も、グリスは生涯キュビストとして活動を続け、「エスプリ・ヌーヴォー」誌にも寄稿した。長い闘病の末、1927年5月11日にブローニュ=ビヤンクールで尿毒症により没し、ブローニュ=シュル=セーヌ墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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