HISTORICAL PERSON · 1927年没

ウィレム・アイントホーフェン

オランダの生理学者・医師。1895年に世界初の実用的な心電図を発明し、その仕組みの発見により1924年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

生涯
1927年没
死亡地
オランダ(南ホラント州 / ライデン)
出生地
インドネシア共和国(スマラン)
出典
世界地図
オランダ(南ホラント州)

伝記

ウィレム・アイントホーフェンは、1860年5月21日、当時オランダ領東インドだったジャワ島のスマランで生まれた。父ヤコブは軍医や公衆衛生官を務めたのちスマランの医師となった人物で、母ルイーズ・マリー・マティルデ・カロリーヌ・デ・フォーヘルは、蘭領東インドの財務の高官の娘だった。六人きょうだい(男三人、女三人)の三番目で、男子では長男にあたる。父は1866年に亡くなり、彼はまだ6歳だった。4年後の1870年に母は子どもたち全員を連れてオランダへ戻り、ユトレヒトに居を構えた。

1879年に中等教育を終え、父にならってユトレヒト大学で医学を学んだ。解剖学者ウィレム・コステルの関節の力学の講義に影響を受け、運動中に手首を骨折して安静を強いられたことをきっかけに、手や肩、肘の関節の働きに関心を向け、肘関節に関する論文を書いた。学生時代の終わりには、眼科医ヘルマン・スネレンのもとで短期間働き、生理学者のフランシスクス・コルネリス・ドンデルスの指導で、赤と青の光の波長の違いによる立体視の研究に取り組んだ。運動の必要性を深く信じ、学生の体育教育を強く奨励した人でもあり、自身も学生時代は優れた運動選手で、大学の体操・フェンシング協会の会長を一時務め、学生ボート部の創設者の一人となったと伝えられる。1885年に医学の学位を得ると、まもなく亡くなったアドリアーン・ヘインシウスの後任として、ライデン大学の生理学の教授と研究室の責任者に迎えられた。翌1886年に就任し、生涯その職にあった。同じ年に従妹のフレデリケ・ジャンヌ・ルイーズ・デ・フォーヘルと結婚し、3人の娘と1人の息子をもうけた。1905年から1906年にかけては同大学の学長を務めている。

教授になって間もない1892年には、気管支の筋肉の働きと神経性喘息に関する論文を発表した。光学の研究も続け、錯視や人間の目の調節、光に対する目の電気的反応などを論じている。やがて心臓の音を正確に記録しようと、リップマンの毛細管電位計を使い始めた。物理学者のようにまず装置の原理を調べ、装置を安定させる方法や、装置の慣性による記録の誤差を数学的に補正する方法を考案した。

1895年に世界初の実用的な心電図を発明し、1901年からは弦電流計によるプロトタイプの完成に取り組んだ。装置は、強力な電磁石の間に張った非常に細い導線の糸に電流を流し、生じる磁場で動く糸の影を、動く印画紙に光で記録する仕組みだった。最初の機械は電磁石の冷却に水を必要とし、操作に5人を要し、重さは約270キログラムにのぼったが、肉や骨を隔てても心臓の電気的活動を測れた。1902年にオランダ王立芸術科学アカデミーの会員となり、1924年には心電図の仕組みの発見によりノーベル生理学・医学賞を受賞した。

のちに小型で高性能な心電図装置が作られたが、心電図の用語の多くは彼に由来する。波形に割り当てたP、Q、R、S、Tの文字は今も使われ、電極の位置を示すアイントーベンの三角形も彼の名を冠している。1927年9月29日、ライデンで死去し、ウフストヘーストの改革派教会の墓地に埋葬された。

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