伝記
ギラウト・デ・ボルネーユは、1138年ごろに生まれ、1215年に没した、12世紀のトルバドゥール(南フランスの詩人)である。ギロー・ド・ボルネーユとも表記される。リムーザン地方の、エクシドゥイユ近くのブルネーに生まれたとみられ、身分の低い家の出身だった。リモージュ子爵の居城とつながりがあり、文芸の才能から「トルバドゥールの巨匠」と呼ばれた。この呼び名は、教える仕事もしていたことから、文字どおりの意味でもあったらしい。
彼の生涯については、伝記と、詩の背景を語る6つの逸話が残っているが、信頼できる程度はまちまちである。伝記によれば、身分は低かったが、文芸に通じた賢い人で、生まれつき才能があった。冬のあいだは学校で文芸を教え、夏のあいだは、自作の歌をうたう2人の歌手を連れて、宮廷を巡り歩いた。結婚しようとはせず、稼いだ金は、貧しい両親と、生まれた町の聖ジェルヴェ教会に送り続けた。リムーザンの修道院で学び、南フランスのいくつかの宮廷を渡り歩いたのち、アラゴン王アルフォンソ2世の宮廷とつながりをもった。1188年から1189年には、子爵アデマール5世に従って十字軍に加わった。カスティーリャ王アルフォンソ8世の宮廷にもしばらくいて、王から多くの贈り物を受けた。1192年に、リムーザンへ引退した。第3回十字軍ではイングランド王リチャード獅子心王に、アンティオキア公ボエモン3世にも保護されたといい、ボエモンの宮廷では冬を1度過ごした。アラゴン王ペドロ2世にも保護された。不運も経験した。ある逸話は、ナバラ王サンチョ強健王が、カスティーリャからの帰途の彼を襲わせて、持ち物を奪ったと語るが、実際には、盗みを働いたのはナバラのある貴族だった。また、領主のリモージュ子爵ギー4世は、1211年に、彼の生まれたエクシドゥイユの城を奪って略奪した。
最初は、アルノー・ダニエルの影響を受けて、難解な詩の様式を支持していたが、のちに、より単純で旋律的な「軽い様式」へと移った。この2つの様式について、ランボー・ドランジュと詩で論争した。「軽い様式」を考案したのでなくとも、それを公式化した人物とされる。恋愛詩の多くは、アラマンダ・デスタンクにあてられている。詩は約90点、旋律は4つが残る。恋愛詩の傑作とされる、民衆詩と洗練された宮廷風の形式を巧みに結びつけた「アルバ(暁の歌)」のほか、騎士道と詩の衰えを嘆く風刺詩、恋の対話、牧歌、友人イニョールの死を悼む挽歌も書いた。彼の評判は13世紀を通じて続き、ダンテも言及し、ペトラルカは彼を「トルバドゥールの巨匠」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス (1215年没)
- 北条時政 (1215年没)
- ゴットフリート・フォン・シュトラースブルク (1215年)
- ベルトラン・デ・ボルン (1215年)
- 明菴栄西 (1215年没)
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