伝記
エミール・クレペリンは、1856年2月15日に、北ドイツのメクレンブルク=フォアポンメルン州ノイシュトレーリッツで生まれたドイツの医学者、精神科医である。ドルパート大学、ハイデルベルク大学、ミュンヘン大学の教授を歴任した。1878年にヴュルツブルクで博士号を取得し、ミュンヘンのクリニックで、脳生物学者グッデンのもとで研修医として働いた。しかし、皆が顕微鏡で脳を見て研究するなか、クレペリンは目が悪く、皆のように観察できなかった。ヴントの著作を熱心に読んでいた彼は、1879年にヴントがライプツィヒに心理学の実験室を設けると、そこで働きたいと申し入れに行き、1882年にミュンヘンを去って、ヴントとともに心理学的研究に没頭した。結婚を控えていたため、金策から、1883年に27歳で『概論』を著し、翌年、生計のために医者となった。1886年にドルパート大学の精神医学の教授に任命されると、患者の経過に興味を持った。
1890年にハイデルベルク大学の精神医学の教授となり、患者の病歴と退院時の状況を書き込んだカードを用意し、その結果から精神障害を分類していった。論文ではなく教科書という形式を選び、1883年から改訂を続けた。1859年に、ノイマンが、精神病はそれ以上に分類できず単一であると主張したが、1850年代にファルレとバイヤルジェは、躁とうつが交代して生じる「循環性の狂気」を確かめており、1863年にはカールバウムが破瓜病を提唱していた。クレペリンは、こうした先駆的な研究から分類を試みた。教科書の1893年の第3版で、彼のカードから分類された早発性痴呆、現在の統合失調症が追加された。この病気の原因は生物学的なものだとし、その説明を加えることで、精神医学にそれを表現する体系を残したことが、歴史的であるとされる。1896年の第5版では、分類だけでは飽きたことや、原因からは分類できないことから、遺伝学や大脳生物学の原因からではなく、予後から分類する方向へ転換した。
1899年の第6版は、現代の『精神障害の診断と統計マニュアル』にまで続く影響を与えた。クレペリンは、精神科医にとっての診断の価値は、将来を予見することだと述べている。精神病を、神経症、精神遅滞など13のグループに大別し、そのうちの2つが、早発性痴呆と躁うつ病、現在の双極性障害である。これは、感情に問題があるものと、そうでないものとに大きく分けたということである。予後の観察では、躁うつ病は自然に回復する循環性の病気で、早発性痴呆の患者は4分の1だけが回復し、残りは痴呆に進んだ。1908年、ブロイラーが、クレペリンが早発性痴呆と呼んだものに対して「精神分裂病群」の用語を提唱した。作業曲線に関する彼の研究は、のちに日本の内田勇三郎による内田クレペリン精神検査の原型となった。
ハイデルベルクでは、役に立つ研究者を周りに置こうとしたため、後のドイツの神経科学を担う人物が集まった。直弟子には、アルツハイマー型認知症として知られる疾患を初めて報告したアルツハイマーや、レビー小体型認知症の名のもとになったレビーなどがいる。1923年、ミュンヘン留学中の斎藤茂吉は、長年憧れたクレペリンの臨床講義を聴きに行き、握手を求めたが拒否され、その無念の思いを歌と随筆に残した。1926年10月7日に、ミュンヘンで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ラーンド (1926年没)
- ヘレン・アリンガム (1926年没)
- カール・アケリー (1926年没)
- Piero Gobetti (1926年没)
- マチルダ・スミス (1926年没)
同じ地域に関係する人物
- オスヴァルト・シュペングラー (1936年没)
- ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯) (1543年没)
- エリー・ナイ (1968年没)
- ゾフィー・アーデルハイト・イン・バイエルン (1957年没)
- アレクサンダー・フォン・ヴュルテンベルク (1804-1881) (1881年没)