伝記
ペドロ2世は、アラゴン王、バルセロナ伯(在位1196年から1213年)で、1204年からはモンペリエの領主でもあった。ローマで教皇に戴冠してもらったことから、「カトリック王」と呼ばれる。1178年7月にウエスカで生まれたとされ、1174年7月とする説もある。父はアルフォンソ2世、母はカスティーリャ王アルフォンソ7世の娘サンチャである。
1196年に即位したとき、母方の従兄で父の盟友でもあったカスティーリャ王アルフォンソ8世が、レオン王アルフォンソ9世とナバラ王サンチョ7世に東西から挟まれ、苦境にあった。前の年にムワッヒド朝のアミール、ヤアクーブ・マンスールにアラルコスの戦いで大敗したことが背景にあった。ナバラと国境の争いを抱えていたペドロ2世はアルフォンソ8世を助け、1198年に共にナバラへ攻め入り、サンチョ7世をカスティーリャに屈服させた。1200年には妹のレオノールとトゥールーズ伯レーモン6世の結婚を取り決めた。1204年11月には、ローマのサン・パンクラツィオ修道院で、教皇インノケンティウス3世から冠と塗油を受けた。アラゴンを聖ペトロの封土としてあらためて教皇に差し出し、毎年一定の金額を教皇庁へ納めることも約束した。アラゴンの王として初めて戴冠し、塗油された王である。1205年6月6日の大勅書で、以後のアラゴン王は、教皇に冠を願い出たうえで、タラゴナ大司教の手で戴冠されることになり、この特権は1206年に王妃にも及んだ。同じ1204年に、モンペリエ領主ギレム8世の娘で女子相続人のマリア・デ・モンペリエと結婚した。マリアは、この結婚の前に2度の離婚歴があり、母はビザンツ皇女エウドキアであった。夫婦の暮らしはわずかで、跡継ぎができるかが危ぶまれ、1206年には、モンフェラートのマリアと結婚するため離婚をはかったが、教皇は認めなかった。1208年に、ひとり息子のハイメ(のちのハイメ1世)が生まれた。
それ以前にも、1198年にモラ・デ・ルビエロス、1202年にマンサネラ、1203年にルビエロス・デ・モラを手に入れていた。1210年からはさらにレコンキスタに力を入れ、バレンシアの国境の要塞をいくつか奪った。翌1211年にアルフォンソ8世と会見して、ムワッヒド朝に対するカスティーリャへの協力を約束し、1212年には、アルフォンソ8世、サンチョ7世とともにナバス・デ・トロサの戦いに加わり、ムワッヒド朝のアミール、ムハンマド・ナースィルを破った。
しかしフランス南部の領土をめぐって、フランスの諸侯と対立した。シモン・ド・モンフォールに息子ハイメを差し出して戦争を避けようとしたが、結局はアルビジョワ十字軍と正面から戦うことになった。カタリ派に肩入れしたとされ、教皇から破門もされている。1213年9月、トゥールーズ郊外のミュレの戦いで戦死した。日付は12日とも13日ともいわれる。無謀にも、みずから先頭に立って敵軍に突撃したと伝えられ、のちに曾孫のハイメ2世は、これを「狂気の沙汰」と記した。母が葬られているシヘナ修道院に葬られたが、異端とされたため、墓地の区域の外とされた。1217年2月に、教皇ホノリウス3世のもとで、遺骸は修道院の内に移され、母の棺の隣に置かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ガス・ブリュレ (1213年)
- フセヴォロド・スヴャトスラヴィチ (キエフ大公) (1213年(推定))
- 康宗 (高麗王) (1213年没)
- マサの聖ヨハネ (1213年)
- マリア・デ・モンペリエ (1213年没)
同じ地域に関係する人物
- ジュスト・フォンテーヌ (2023年没)
- Henri Anspach (1979年没)
- Giulio Cesare Vanini (1619年没)
- ギィ・ラペビー (2010年没)
- ウィリアム・ヴィンセント・ウォレス (1865年没)