伝記
ゲオルギー・エヴゲーニエヴィチ・リヴォフ公爵は、1861年11月2日(ユリウス暦では10月21日)、ザクセン王国のドレスデンで生まれた。家はリューリク朝の流れを組むロシア有数の名門貴族だったが、暮らしは質素で、生まれてまもなく一家はドイツから戻り、モスクワに近いトゥーラ県のポポフカ村にある先祖伝来の屋敷に移った。近くには作家トルストイの住むヤースナヤ・ポリャーナがあり、リヴォフ家はトルストイを最も親しい友人の一人に数えていたという。農奴解放後の一家は負債を抱え、1870年代末には約15万ルーブルを超える借金を負っていた。領地や醸造所、モスクワの住まいを手放しても返せず、先祖の家を手放すことは考えられないとして、荒れた屋敷を農場として立て直す道を選んだ。父は病で働けず、年上の兄たちと妹が農作業を担い、使用人も解雇して農民のように暮らした。リヴォフは後年、この経験が自分を上流階級から切り離し、民主的にしたと振り返っている。借金は1880年代末までに返済された。
リヴォフは1885年にモスクワ大学法学部を卒業し、トゥーラ州の裁判所に1893年まで勤めた。私生活では、1891年から翌年の飢饉の際にタンボフ県の炊き出しで知り合ったとされるユリア・ボブリンスカヤ伯爵令嬢と結婚した。1903年にトゥーラ州の農村審議会(ゼムストヴォ)の議長に就き、翌1904年に日露戦争が始まると、各地のゼムストヴォが赤十字を助けるため、医師と看護師あわせて360人の合同医療隊を編成し、その指揮を任された。ゼムストヴォが全国規模で動くことは、1890年にアレクサンドル3世が権限を制限して以来のことだった。リヴォフが皇帝に懇願して派遣が認められ、感激した皇帝は彼を抱擁して送り出したと伝えられる。この救援活動は軍の指導者から高く評価され、リヴォフは国民的な英雄となり、ゼムストヴォも政治の場に復帰する足がかりを得た。
1906年に第一国会(ドゥーマ)に立候補して当選し、立憲民主党の一員となった。ドゥーマでは食品医療委員会に所属し、日露戦争後の食糧不足を和らげるため食料や医療品の配給に当たった。1909年にはアメリカ合衆国とカナダを視察している。1914年にゼムストヴォ全ロシア連合の議長に選ばれ、第一次世界大戦が始まると、負傷兵のための病院設備や医療機器、衣服の供給を担った。1915年にはゼムストヴォ同盟と都市同盟の合同委員会ゼムゴルの指導者の一人となり、軍への補給と傷病者の世話を支えた。
1917年3月、二月革命でニコライ2世が退位してロマノフ朝が崩壊すると、リヴォフはロシア臨時政府の首相兼内相に就任した。事実上の国家元首として自由主義的な改革を進めたが、政府は戦争の継続を決め、7月に東部戦線でケレンスキー攻勢を行って失敗した。続く七月蜂起で政治的な権威が落ち、首相兼内相を辞任して、後任には陸海軍相のアレクサンドル・ケレンスキーが就いた。十月革命の後、ボリシェヴィキによりチュメニで逮捕されてエカテリンブルクへ連行されたが、脱走に成功してオムスクのシベリア共和国に合流した。
シベリア共和国首相の指示を受け、1918年10月にアメリカへ渡って支援を取り付けようとしたが、交渉は実らず、フランスへ亡命した。1918年から1920年にかけては、ロシアへの支援と亡命者の援助を訴える集会を何度か開いている。その後は政治活動から退いてパリに住み、回顧録を書きながら晩年を過ごした。1925年3月、パリで死去し、遺体はサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワに埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
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