HISTORICAL PERSON · 1925年没

ゴットロープ・フレーゲ

ドイツの哲学者・論理学者・数学者。『概念記法』で伝統論理学を一新し、論理主義を提唱して、現代の数理論理学と分析哲学の祖とされる。

生涯
1925年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(メクレンブルク=フォアポンメルン州 / バート・クライネン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ヴィスマール)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(メクレンブルク=フォアポンメルン州)

伝記

フリードリヒ・ルートヴィヒ・ゴットロープ・フレーゲは、1848年11月8日に生まれ、1925年7月26日に没したドイツの哲学者、論理学者、数学者である。現代の数理論理学と分析哲学の祖とされる。バルト海に面した港町ヴィスマールに生まれ、母アウグステ・ビアロブロツキーはポーランド系であった。1854年にヴィスマールのギムナジウムに進み、1866年には父カール・アレクサンダーが亡くなった。1869年にギムナジウムを卒業してイェーナ大学に進学し、1871年頃にゲッティンゲン大学へ移って、1873年に数学の博士号を取得した。

1874年にはイェーナ大学に大学教授資格論文を提出し、数学科の私講師に採用された。1879年に『概念記法』を刊行する。これは、アリストテレス以来およそ2,000年変わらずに続いた伝統論理学を一掃し、論理学に新時代を開いた書とされる。今日の数学で定着している、任意を表す記号や存在を表す記号のような量化は、この業績に基づく。フレーゲは命題論理と述語論理の公理化を最初に行った人物で、特に述語論理は彼自身の発明である。ただし概念記法は高階論理の体系であり、ラムダ計算の祖ともいえるほど先駆的であった。あまりに先進的で独創的だったため、同時代には意義が十分に理解されなかった。その概念が広まったのは、ジュゼッペ・ペアノやバートランド・ラッセルらによるところが大きいとされる。1879年頃にはイェーナ大学の員外教授に昇進した。

1884年に『算術の基礎』を刊行し、1887年にはマルガレート・リーゼブルクと結婚した。1891年に「関数と概念」を講演し、1892年には論文「意義と意味について」「概念と対象について」を発表した。前者では意味と意義の区別が、後者では概念と対象の区別が知られ、言語哲学や分析哲学の基礎を築いた一人に数えられる。1893年には『算術の基本法則』第1巻を刊行した。これは、数学は論理に帰着しうるとする論理主義の立場から、自然数論と実数論を論理から導こうとする企てであった。1895年にはリューベックの学会で講演し、ダフィット・ヒルベルトと出会った。1896年には教授に昇進している。1898年に母が亡くなり、1900年頃にはアルフレートを養子に迎えた。同年、パリ国際哲学会議への招待講演の依頼は断った。

1902年、ラッセルから、『算術の基本法則』の公理系が矛盾を引き起こすことを知らせる手紙が届いた。いわゆるラッセルのパラドックスである。1903年に『算術の基本法則』第2巻を刊行し、補遺でこの矛盾を認めた。矛盾を避ける方法を模索したが、修正案にも欠陥があることが、1938年にスタニスワフ・レシニェフスキによって示された。同じ1903年に枢密顧問官の称号を授与され、1905年には妻マルガレートが亡くなった。1911年にはウィトゲンシュタインがフレーゲを訪ねている。1912年のケンブリッジ数学会議と、1917年のウィトゲンシュタインによるウィーンへの招待は、いずれも断った。1918年にイェーナ大学を退職し、バート・クライネンに引退して、1925年にその地で亡くなった。

体系の矛盾は長らく第5法則のせいとされてきたが、のちにチャールズ・パーソンズらにより、ヒュームの原理からも矛盾を生む自然数論が導けると示された。このため、近年はフレーゲの論理主義を再評価する動きが強まっている。ウィトゲンシュタインとエトムント・フッサールは大きな影響を受けた哲学者で、ルドルフ・カルナップはその授業に出席していた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物