HISTORICAL PERSON · 1925年没

ヘンリー・ライダー・ハガード

英国の冒険小説家。アフリカなどの秘境を舞台にした作品を書き、代表作に「ソロモン王の洞窟」とその続編、「洞窟の女王」などの「シー」シリーズがある。

生涯
1925年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(Bradenham)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

サー・ヘンリー・ライダー・ハガードは、1856年6月22日にノーフォークのブラデナムで生まれ、1925年5月14日に没した、イギリスの冒険小説家である。暗黒大陸と呼ばれた時代のアフリカなど、人跡未踏の秘境を舞台とした秘境探検小説を主に著した。代表作に『ソロモン王の洞窟』とその続編群(アラン・クォーターメインもの)、『洞窟の女王』などの「シー」シリーズがある。十人きょうだいの八番目で、父は法廷弁護士、母は作家で詩人だった。心霊学に凝っていた両親に連れられて心霊実験の集会に出かけ、超自然的な現象に異常なほどの興味を示した。兄たちと違い、父が高額な教育費を出せなくなったため、イプスウィッチの学校に通い、陸軍の入学試験に失敗して、ロンドンの予備校に送られた。

1875年、十九歳のとき、父の命令で、ナタール総督ブルワーの秘書助手として、無給の職に就くため南アフリカへ渡った。翌年にはトランスヴァール特別弁務官シェプストンの幕僚に転じ、1877年4月、プレトリアでイギリスによるトランスヴァール併合の公式発表に居合わせた。声を失った役人に代わって国旗を掲げ、布告の多くを読み上げたという。当時のアフリカは戦乱のさなかにあり、仕事は命懸けだった。現地の言葉を熱心に習い、奥地の集落へ出かけて、彼らと起居を共にし、その歴史、風俗、伝説、迷信などを研究して、アフリカを舞台とした小説を書く野心を持った。1878年にトランスヴァール高等法院の登記官となった。

1880年にイギリスに帰り、妹の友人マリアナ・マージストンと結婚して、夫婦でアフリカへ渡った。四人の子をもうけ、長男ジャックは十歳のときに麻疹で亡くなった。1882年に帰国して、ノーフォークのディチンガムに居を構え、妻と協力して駝鳥の飼育場を経営し、農政研究にも打ち込んだ。法律を学び、1884年に弁護士になったが、弁護士の仕事にはあまり熱心になれず、小説を書くことに時間を費やした。同年、処女作『夜明け』を発表したが、イギリスが舞台の普通小説で、あまり評判にならなかった。

1885年、話題になっていたスティーブンソンの『宝島』に対抗意識を燃やし、わずか六週間で書いた『ソロモン王の洞窟』が、出版と同時に『宝島』以上の評判となって、売上でも凌いだ。この成功で、作品の題材を探るため世界各地を訪れ、エジプトやイスラエル、メキシコ、インカ帝国などを舞台とした秘境冒険小説を次々と発表した。『洞窟の女王』を書くときには、腹案も下書きも用意せず、六週間で書き上げたという。ハガードの作った二大キャラクターは、探検家アラン・クォーターメインと、不死の女王アッシャである。『二人の女王』でアランを死なせたところ、読者の抗議が殺到し、回想という形で復活させた。ヘンリー・ミラーは彼を「もっとも親近性のある尊敬すべき作家」と評し、コナン・ドイルも、作品の質と思想の面白さではハガードを凌ぎたいと言うほど、当時の人々は熱狂した。農業改良運動家としての名声も高まり、1912年にナイト・バチェラーの勲爵士となった。

晩年は冒険小説も飽きられ、作家としても一時の隆盛から遠のいた。農政問題での活動にも疲れ、版元ロングマンズ・グリーン社の創立二百年の式典で、作家代表として祝辞を述べた後に倒れ、1925年に六十八歳で世を去った。妹のエレオノラは、駐日ベルギー公使の妻として、約十六年間日本で暮らし、『ベルギー公使夫人の明治日記』を著した。

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