伝記
フェリックス・クリスティアン・クラインは、1849年4月25日にデュッセルドルフで生まれたドイツの数学者で、群論と幾何学との関係、関数論などの発展に寄与し、クラインの壺の考案者としても知られる。デュッセルドルフは、プロイセンのライン州の政庁所在地で、主としてプロテスタントの町であり、クライン家もそうだった。父カスパーは、厳格な保守的な考えの持ち主で、プロイセン政府の州知事の秘書であった。母エリーゼから初等教育を受け、6歳で私立学校に入り、2年半後にそこを離れて、1857年に父の希望でギムナジウムに入った。プロイセンの教育はラテン語とギリシア語に重きを置き、数学の教育は少なかった。科学に関心を持った彼に、家族の友人たちが数学の教育を補った。16歳でボン大学に入り、物理学者になるつもりだったが、まもなくプリュッカーの目にとまり、1866年にその物理学実験室の助手となった。
1868年にプリュッカーの指導のもとで博士号を得たが、プリュッカーは同じ年に亡くなり、直線を空間の基本的な対象とする幾何学の書物を未完のまま残した。クラインは助手の職を失ったが、その第二部を完成させる最適の人物だった。19歳で数学に転じ、クレプシュに招かれてゲッティンゲン大学に移り、プリュッカーの未完の書の編集に取り組んだ。1869年の秋にはベルリンに行き、ヴァイエルシュトラスのセミナーに出て、のちに大きな影響を受けるリーらと出会った。1870年の夏にはリーとパリに行き、ジョルダンやダルブーと接触したが、普仏戦争で中断された。帰国後、プロイセン軍に衛生兵として従軍し、1871年にゲッティンゲンで私講師の資格を得た。
1872年、23歳という異例の若さでエアランゲン大学の教授に就任した。リーとジョルダンから群論を学んで幾何学に応用し、このときの就任講演として企画されたのが、彼の大きな業績のひとつである「エルランゲン・プログラム」である。これは、幾何学を、図形にある変換を施したときに変わらない性質を研究する学問とし、変換群と不変量を基に幾何学を特徴付けるものであった。クラインは、射影変換群がユークリッド群より本質的に大きいことを示した。それまで雑多に創り出されてきた多くの幾何学を分類し直したことが、その大きな意味であった。最初はあまり受け入れられず、エアランゲンには3年しかいなかった。
1875年にミュンヘン工科大学の教授となり、哲学者ヘーゲルの孫アンネ・ヘーゲルと結婚した。1880年にライプツィヒ大学で教え、翌年にポアンカレの論文を読んで文通を始めたが、次第に皮肉の混じったものになり、1882年にポアンカレが書いた手紙を最後に途切れた。この対立は二人に大きな負担となり、クラインはその数か月後にうつ病にかかって休養を余儀なくされた。以後は研究よりも教育に力を入れ、ヒルベルトやデーンなどの数学者を育てた。数学雑誌の刊行や教育改革にも取り組んだ。1885年にロンドン王立協会の外国人会員となり、1886年にゲッティンゲン大学の教授に就任した。向き付け不可能な閉曲面を初めて発見し、これがクラインの壺と呼ばれる。1912年にコプリ・メダルを受け、1913年に健康上の理由でゲッティンゲン大学を退職したが、その後数年は自宅で講義を続けた。1925年6月22日にゲッティンゲンで没した。
同じ年に亡くなった人物
- カール・アーブラハム (1925年没)
- オットー・ヴィルヘルム・トーメ (1925年没)
- フランソワーズ・ドルレアン (1844-1925) (1925年没)
- ウジェーヌ・ジグー (1925年没)
- フェリックス・セスマガ (1925年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク (シャウムブルク=リッペ侯) (1911年没)
- エレーヌ・ベール (1945年没)
- ヘルムート・プレスナー (1985年没)
- ヴィルヘルム・ラーベ (1910年没)
- アルノルト・アドルフ・ベルトルト (1861年没)