HISTORICAL PERSON · 1925年没

アレクサンドラ・オブ・デンマーク

英国王エドワード7世の妃でデンマーク王クリスチャン9世の長女。王太子妃時代に、戦争の遺族への援助のため軍人家族協会を設立した。

生涯
1925年没
死亡地
イギリス連邦(ノーフォーク / サンドリンガム・ハウス)
出生地
デンマーク(デト・ユレ宮殿)
出典
世界地図
イギリス連邦(ノーフォーク)

伝記

アレクサンドラ・オブ・デンマークは、1844年12月1日にコペンハーゲンで生まれ、1925年11月20日に没した、イギリス国王エドワード7世の妃で、イギリス王妃、インド皇后である。のちのデンマーク王クリスチャン9世の長女で、長兄にデンマーク王フレゼリク8世、弟にギリシャ国王ゲオルギオス1世、妹にロシア皇帝アレクサンドル3世の皇后マリアがいる。愛称はアリックス。妹ダウマー(のちのロシア皇后マリア・フョードロヴナ)とは歳も近く、同じ部屋で育ち、大の仲良しだった。父は、1852年の王位継承法で、嗣子のいないフレゼリク7世の継承者に選ばれるまでは財力がなく、デンマーク王室から無料で借りた、コペンハーゲン市内の小さな家で暮らしていた。アレクサンドラは妹弟とともに両親から教育を受け、英語は、イギリス人の看護婦と牧師から習った。ダウマーとともに美貌の王女と呼ばれた。

そのさなか、父が王位を継いで間もなく、イギリス政府から、アリックスとイギリス王太子アルバート・エドワードとの縁談が持ちかけられた。経済的に窮地にあったデンマーク王室にとって、願ってもない話だったが、当時デンマークはプロイセンとシュレースヴィヒ=ホルシュタインをめぐって争っており、ドイツ寄りのヴィクトリア女王は消極的だった。しかし、王太子の素行の悪さを直したかった女王は、美貌の妃を与えて大人しくさせようと考え、ベルギー国王レオポルド1世の住むベルギー王宮でアリックスと会うことにした。女王と王太子は、アリックスの美貌に惚れ込み、縁談は成立した。コペンハーゲンを発つとき、妹ダウマーは涙して見送った。1863年3月10日にアルバート・エドワードと結婚し、プリンセス・オブ・ウェールズとなった。二人の間には3男3女が生まれたが、結婚後も王太子の女性遍歴は絶えなかった。アリックスは夫の不倫を見て見ぬふりをし、その屈辱を子育てで耐えた。

未来の国王として育てた長男アルバート・ヴィクターが、28歳で病死したことは大きな痛手で、一時は王室行事に出席しない日々が続いた。アルバート・ヴィクターの婚約者だったテック公女メアリーは、次男ジョージ(のちのジョージ5世)と結婚した。1901年にヴィクトリア女王が亡くなったあと、次男夫妻が9か月も4人の子供たちを置いて植民地などを訪問することになると、アリックスは両親に甘えられない孫たちを不憫に思い、非常に可愛がった。ダウマーの息子ニコライ(のちのニコライ2世)と、ヘッセン大公女アレクサンドラとの結婚には、ダウマー夫妻とともに反対した。1894年に義弟のアレクサンドル3世が亡くなると、ロシアを訪れて、悲しみに暮れるダウマーを励ましたが、結婚は成立し、二人は祝うことができなかった。

1901年にヴィクトリア女王が崩御し、エドワード7世が即位すると、アリックスはイギリス王妃となった。50歳を超えていたが、30代に見えるというほどの美貌を保ち、ヴィクトリア女王の長く重苦しい治世の後で、その天性の明るさは、誰からも好感を持たれたという。夫の女遍歴はその後も絶えなかったが、1910年に王が危篤に陥ったとき、王妃は王の友人を招いて最後の別れをさせた。1917年にロシア革命が勃発して、ロマノフ朝が倒れると、皇帝一家の安否を心配した。妹ダウマーらがクリミアのヤルタに幽閉されたと知ると、救出に奔走し、息子のジョージ5世が戦艦マールバラを差し向けて、ダウマーと娘一家をクリミアから救い出した。ニコライ2世一家の銃殺を知らせる公式文書が届いたときには、ジョージ5世とともに大きな衝撃を受けた。

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