伝記
伊稚斜単于は、中国の前漢時代の匈奴の単于である。老上単于の子で、軍臣単于の弟にあたる。在位は紀元前127年から紀元前114年までとされ、紀元前126年から前114年とする記述もある。武帝のもとで漢が積極的に北方へ進出した時代に重なり、匈奴が漢との戦いで大きく力を失っていく時期を治めた。紀元前161年に兄の軍臣単于が即位すると、左谷蠡王に封じられた。紀元前127年に兄が死ぬと、その太子の於単を退けて自ら単于となった。於単は戦いに敗れて漢に亡命し、渉安侯に封じられたが、まもなく死去した。
即位の翌年の紀元前126年夏、匈奴の騎兵数万が代郡に侵入し、太守の龔友を殺して千人余りの住民を連れ去った。翌年にも代郡・定襄郡・上郡に侵入し、数千人を連れ去った。このころ右賢王は、漢がオルドスを奪って朔方に長城を築いたことを恨み、たびたび国境地帯を略奪していた。紀元前124年の春、漢は衛青を大将軍に任じ、6人の将軍と10余万の大軍で匈奴を討たせた。右賢王は漢軍が来るまいと思って酒を飲んでいたところを夜襲され、身一つで逃げ出した。漢軍は配下の民1万5千人と裨小王10余人を捕らえたという。その秋、匈奴の1万騎が代郡に侵入し、都尉の朱英を殺して千余人を連れ去った。
紀元前123年の春にも衛青が匈奴を撃ち、1万9千人余りが斬首または捕虜になった。この時の戦いでは、深入りした蘇建と趙信の軍が討たれ、趙信は降伏し、蘇建は逃れたともいわれる。趙信はもと匈奴から漢に降った人物で、伊稚斜単于は彼を捕らえると自次王に封じ、自分の姉を娶らせた。趙信は漢の事情に通じた顧問として重んじられ、単于に、漢の侵攻を避けて敵を草原の奥深くへ誘い込むため、ゴビ砂漠の北へ本拠を移すよう説いたとされる。伊稚斜単于はその計略を用いて漢軍に当たった。紀元前121年の春、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎を与えて匈奴を攻めさせた。霍去病は多くの匈奴を斬首・捕虜とし、休屠王の天を祭る黄金の像を奪った。同じ夏に祁連山も攻められた。同じ頃、左賢王は代郡と雁門郡を略奪したが、張騫と李広に迎え撃たれた。その秋、伊稚斜単于は、西方を守る渾邪王と休屠王が数万の部下を漢に殺されたことに怒り、二人を処刑しようとした。恐れた二人は漢への降伏を図り、渾邪王は休屠王を殺して自分だけが漢に投降した。この裏切りは、漢と匈奴の力の均衡を漢に大きく傾けたとされる。
紀元前119年の春、漢は衛青と霍去病を定襄郡と代郡からそれぞれ進軍させ、伊稚斜単于を攻めた。匈奴は準備を整えて待ち受け、漠北の戦いとなった。衛青は戦車で陣を固めつつ、5,000騎を出して敵を探らせた。伊稚斜単于は1万騎で応じた。夕方に強風が起こると衛青は主力を投じて包囲し、単于は包囲を破って逃れようとしたが、兵の統制を失って敗走した。単于が死んだと思った右谷蠡王は自ら単于を称したが、のちに単于が戻ったため、号を返上した。左賢王も霍去病に敗れて7万人を失い、遠くへ逃れた。匈奴は漠南の地を失い、漢の領土は広がった。李広は合流が遅れて自殺したが、この遠征で漢も10万頭の馬を失い、騎兵は長く痛手を受けた。
紀元前124年から前119年にかけての漢の侵攻で、匈奴は軍民合わせて30万人を失ったとされる。紀元前116年には匈奴が涼州に侵入した。伊稚斜単于は即位13年の紀元前114年に死に、子の烏維が単于の位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- プブリウス・ムキウス・スカエウォラ (紀元前133年の執政官) (紀元前 114年(推定))
- 張騫 (紀元前114年没)
- アルタヴァスデス1世 (紀元前114)
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