伝記
寂蓮は、平安時代の末から鎌倉時代の初めにかけての歌人で、僧侶である。俗名を藤原定長という。1139年(保延5年)ごろに生まれたとされる。父は醍醐寺の阿闍梨で、僧の俊海である。久安6年(1150年)ごろ、叔父の藤原俊成の養子となった。俊成の弟が亡くなったのを受けてのことで、俊成は、はじめ定長を自分の跡継ぎにするつもりだった。のちに従五位上、中務少輔にまで昇った。
ところが俊成に実の男子が生まれたため、定長は跡継ぎの立場を、後の藤原定家に譲らなければならなくなった。30歳代で出家し、寂蓮と名のって、歌の道に励んだ。西行を手本として、各地を旅し、旅の中で歌を詠んだ。御子左家の中心となる歌人として活躍し、藤原定家とも並び称された。「六百番歌合」では、顕昭との「独鈷鎌首論争」を交わしたことで知られる。
鴨長明は『無名抄』のなかで、世間では寂蓮は藤原隆信と一対に評価されていたが、六百番歌合のとき、寂蓮は出家して時間に余裕があったため、「たとえようもなく勝っていた」ので、その時から寂蓮に並ぶ者はないといわれるようになったと記している。また三体和歌の折、長明が事前に自分の歌を見せたところ、寂蓮も同じような「高間の桜」を詠んでいたが、文句も言わず、「たいへん得がたい心だ」と評した。人柄のよさもうかがえる。後鳥羽院は『後鳥羽院御口伝』で、「寂蓮は、いいかげんではなく歌を詠んだ人だ」と述べ、折に触れて歌、連歌、狂歌までも、急な場面で、もっともらしく詠む力を、「真の堪能」とたたえた。
建仁元年(1201年)に和歌所の寄人となり、『新古今和歌集』の六人の撰者の一人となった。この集には、35首が選ばれた。しかし完成を待たず、翌建仁2年7月20日(1202年8月9日)に亡くなった。享年64と伝える。死ぬ前に、俊成の弟子の藤原家隆を養子にしたという。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に、117首が入っている。家集に『寂蓮法師集』がある。小倉百人一首にも1首が入っている。『新古今和歌集』秋の部の上に並ぶ、結びが「秋の夕暮」の三首、西行、定家と寂蓮の「さびしさは」の歌は「三夕」と呼ばれ、後の世には茶道具の銘などにされた。書家としても名があり、『一品経和歌懐紙』と『熊野懐紙』は、署名のある確かな自筆の詠草である。妻は藤原永範の娘で、男子に藤原保季(1200年没)、幸尊、公猷、昌観がおり、娘は藤原家隆の妻となった。
同じ年に亡くなった人物
- フィオーレのヨアキム (1202年没)
- スヴェレ・シグルツソン (1202年没)
- 明宗 (高麗王) (1202年没)
- レギナルド (1202年)
- ブロンデル・ド・ネスル (1202年(推定))
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。