伝記
ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンは、1845年3月27日に、プロイセン王国のラインラントにあるレンネップ(現在はレムシャイトの一部)で生まれたドイツの物理学者である。1895年にX線の発見を報告し、この功績により、1901年に第1回ノーベル物理学賞を受賞した。父は織物商のフリードリヒ・レントゲン、母はオランダ人のシャルロッテ・コンスタンツェで、裕福な家庭の一人息子だった。1848年に一家はオランダのアペルドールンに移り、そこで初等教育を受けたが、卒業目前に、教師にいたずらをした友人をかばったため、ギムナジウムに進学できなかった。結局、1862年から2年半、オランダのユトレヒト工業学校で学び、1865年にチューリッヒ工科大学の機械工学科に進学した。1868年に機械技師の免状を取得したが、クラウジウスの工業物理の講義を聴いて、物理への関心が高まったという。後任のクントに師事し、1869年に『種々の気体の熱的性質に関する研究』で博士号を取得した。
1870年にクントがヴュルツブルク大学の教授になると、その助手となり、1872年には、チューリッヒ時代から交際して婚約していた6歳年上のアンナ・ラディッグと結婚した。アンナは後に、有名な右手のX線写真のモデルを務めている。同年クントがストラスブール大学に移ったため、これに同行して助手を続けた。このころから独立して実験を行うようになった。1874年に大学教授となる資格を得て、1875年から約1年間は数学と物理の教授を務めたが、実験の時間がないため、助教授としてストラスブール大学に戻った。そこでは主に物理定数の精密測定を行い、気体や液体の圧縮率、旋光度などについて15本の論文を発表した。これらが評価され、1879年に、キルヒホフやヘルムホルツの推薦を得て、ギーセン大学の物理学の正教授に就任し。
1888年に、ヴュルツブルク大学のポストが空き、クントらの推薦もあって、教授として招かれた。同年発表した論文で、マクスウェルの電磁理論を実験的に証明し、レントゲン電流と呼ばれる変位電流を発見した。1894年には同大学の学長に選ばれた。圧力をかけたときの固体や液体の物性変化を研究し、1895年10月から放電管の実験を始め、これが翌月のX線の発見につながった。当時は、ヘルツやレーナルトらによって、真空放電や陰極線の研究が進められていた。彼もこれらの現象に興味を持ち、レーナルトに依頼して、レーナルト管を譲り受けた。X線の発見に関する論文に、これへの謝辞がなかったため、レーナルトから激しい怒りを買った。
1895年11月8日、ヴュルツブルク大学で、クルックス管を用いて陰極線の研究をしていた彼は、机の上の蛍光紙の上に、暗い線が表れたことに気づいた。管は黒い紙で覆われ、既知の光は遮られていた。作用の元は外部ではなく装置だと考え、管から2メートル離しても発光が起きることを確かめ、目には見えない光のようなものが装置から出ていることを発見した。後年、発見のとき何を考えたかと問われ、「考えはしなかった。ただ実験をした」と答えている。この放射線は、厚い本やガラス、薄い金属箔を透過し、鉛には遮蔽され、蛍光物質を発光させた。数学の未知数を表す「X」の文字を使って、仮にX線と命名した。7週間の昼夜を通じた実験の末、12月28日には、『新種の放射線について』という論文を送っている。翌1896年1月には、妻の薬指に指輪をはめて撮影した写真など、数枚のX線写真を添付して、著名な物理学者に送った。1923年2月10日に没した。
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