伝記
ホセ・ドロテオ・アランゴ・アランブラは、1878年6月5日に、メキシコのドゥランゴ州サン・フアン・デル・リオのラ・コヨータダで生まれた革命家で、一般にパンチョ・ビリャの愛称で知られる。「パンチョ」は「フランシスコ」の愛称である。大農園で働くインディオ系の小作農の息子として生まれ、父は彼が幼い頃に死に、母と二人の妹、二人の弟と暮らした。16歳の時に農園主と衝突し、チワワ州で山賊に加わった。警官隊との銃撃戦で山賊の首領が死ぬと、その名「フランシスコ・ビリャ」を名乗り、山賊を率いることになった。その後、盗んだ家畜を売り払っていた経験を生かして、食肉・屠殺業を営んでいたが、チワワ州の財務行政官ゴンサーレスと出会い、革命運動に加わった。ゴンサーレスは、ディアス大統領の独裁に反対するマデロの支持者で、ビリャに基礎的な教育を施し、その目を政治に向けさせた。このときから生涯の終わりまで、ビリャは、人々のための革命で戦うことを自身の使命と考えた。
1911年3月にマデロを支持し、ディアスの連邦軍との戦いに加わった。5月末にディアスが辞任して国外に逃亡し、11月にマデロが大統領に就任した。翌年の3月にオロスコが反乱を起こすと、ビリャは義勇兵を指揮し、ウエルタ将軍の下でオロスコ軍と戦った。6月にはウエルタの命令で逮捕され、処刑を命じられたが、マデロの命令で処刑は延期され、陸軍刑務所に収監された。同年末に、法廷書記官の手助けで脱獄して、アメリカのアリゾナ州に逃れた。1913年2月にウエルタがクーデターを起こし、マデロを殺害して大統領に就くと、理解者だったゴンサーレスも逮捕、殺害された。ビリャはウエルタへの復讐心を燃やした。コアウィラ州知事カランサを筆頭に、クーデターに反対する動きが起こり、ビリャも革命軍に加わって、カランサを第一統領とする「護憲軍」が結成された。8月に「護憲軍北部師団」の司令官となり、10月に奇策で国境の要衝シウダ・フアレスを占領した。11月にはウエルタ政府軍をティエラ・ブランカで破り、州都チワワ市を占領して、チワワ州全域を解放した。翌年4月には鉄道の要衝トレオンを攻略し、ウエルタは7月に退陣してスペインに亡命した。
しかし、カランサが暫定大統領に就くと、旧支配層との妥協を図る彼に革命勢力は反発し、ビリャは「メキシコ国民に対する宣言」を発表した。一方のカランサはオブレゴンと手を結び、反撃に出た。1915年4月にセラヤで、塹壕と機関銃を組み合わせた新戦法のオブレゴン軍に対し、騎兵の突撃を繰り返したビリャ軍は大敗し、チワワ州に敗走してゲリラ戦を行うようになった。カランサを承認したアメリカに抗議して、1916年1月にチワワ州で列車に乗っていたアメリカ人鉱山技師ら16人を殺害し、3月9日には1500人を率いてニューメキシコ州を襲撃した。ウィルソン大統領は、パーシング将軍の指揮下に1万2000人の遠征部隊を派遣したが、チワワ州で圧倒的な人気のあったビリャは、捕らえられなかった。遠征は失敗し、1917年1月に探索は打ち切られた。
1920年の和平協定でビリャ軍は武装解除され、故郷のチワワ州で広大な土地を得て、妻子や同志たちと農場を経営して平和に暮らした。1923年7月20日、友人の子の名付け親になるために出かけた帰り道に、銃撃を受けて暗殺された。暗殺犯は不明のままだが、軍部が関係していたとされる。大衆から英雄として扱われたが、革命の公式の歴史では無視され続け、正式に議会で革命の功労者とされたのは、死後43年の1967年のことだった。
同じ年に亡くなった人物
- フランソワ・C・アントワーヌ・シモン (1923年没)
- トンマーゾ・サルバドーリ (1923年没)
- カダンビニ・ガングリ (1923年没)
- ステファノス・ドラグミス (1923年没)
- レーモン・ラディゲ (1923年没)
同じ地域に関係する人物
- ルカス・アラマン (1853年没)
- ミゲル・イダルゴ (1811年没)
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- イグナシオ・アジェンデ (1811年没)
- ファン・アルダマ (1811年没)