HISTORICAL PERSON · 1923年没

コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)

ギリシャ国王。王太子時代に第1回近代オリンピックの実行委員会を指揮し、希土戦争やバルカン戦争で軍を率い、第一次大戦では中央同盟国への親近感が強かった。

生涯
1923年没
死亡地
イタリア共和国(パレルモ県 / パレルモ)
出生地
ギリシャ共和国(アテネ)
出典
世界地図
イタリア共和国(パレルモ県)

伝記

コンスタンティノス1世は、1868年8月2日にアテネで生まれた、ギリシャの国王である。在位は1913年3月18日から1917年6月11日と、1920年12月19日から1922年9月27日である。ギリシャ国王ゲオルギオス1世の長男で、母はロシア大公女オリガ・コンスタンティノヴナであった。王家で最初にギリシャで生まれた王位継承者であったため、誕生は大きな熱狂で迎えられ、ライカベトスの丘で祝砲が撃たれると、宮殿の外に集まった群衆は、新生児の名はコンスタンティノスであるべきだと叫んだ。これは母方の祖父の名であると同時に、伝説の「コンスタンティノープルを再征服する王」の名でもあった。当時の著名な大学教授たちが家庭教師に選ばれ、歴史のパパリゴプーロスは、彼に「メガリ・イデア」の理念を吹き込んだ。1882年にギリシャの士官学校に入り、卒業後はベルリンへ送られて軍事教育を受け、ドイツ帝国近衛軍に勤務した。ハイデルベルクとライプツィヒで政治学と経済学も学んだ。1890年に少将となり、アテネの第3軍司令部を指揮した。

1895年1月には、税制への抗議デモを軍と憲兵で解散させ、政治的な混乱を招いた。首相トリクーピスは、国王に息子の政治への介入を控えるよう求め、議会で激しい議論となって、トリクーピスは辞職した。1896年に王太子として、アテネで開かれた第1回近代オリンピックの実行委員会を指揮した。マラソンで、地元ギリシャのスピリドン・ルイスが先頭でパナシナイコ競技場に入ってくると、大喜びで、弟のゲオルギオス王子とともに最後の200メートルを伴走した。1897年の希土戦争と、1912年の第一次バルカン戦争では、ギリシャ軍の司令官に任命された。1889年10月27日には、ドイツ皇帝フリードリヒ3世の娘ゾフィーとアテネで結婚し、夫妻は6人の子をもうけた。

1913年にテッサロニキで父が暗殺されると王位を継ぎ、コンスタンティノス1世として即位した。翌年には第一次世界大戦が勃発した。ドイツで教育を受け、プロイセン陸軍士官学校で学び、ヴィルヘルム2世の妹と結婚した彼は、中央同盟国に親密感を抱いていた。戦争が長期化すると、どちらの陣営に就くかという困難な選択を迫られた。民衆の支持を集めた首相ヴェニゼロスは連合国を支持しており、地中海の覇権を握っているのも連合国だったため、やむなく中立を選んだ。連合国がガリポリの戦いに敗れると、1915年10月にヴェニゼロスを解任し、意のままになる人物を首相にした。ヴェニゼロスはテッサロニキで連合国の支持のもとに暫定革命政府を組織し、国王と対立した。1916年、対立が深まって内戦が避けられなくなると、ドイツに艦隊と陸軍と経済援助を要請したが、ドイツ参謀本部は断った。

1917年6月11日に退位に同意してギリシャを離れ、王位は次男アレクサンドロスが継ぎ、彼はスイスで亡命生活を送った。1920年にアレクサンドロスが崩御すると、国民投票で復位が決まり、ギリシャに戻って再び王位に就いた。しかし1919年から1922年まで戦われた希土戦争に敗れると、1922年9月27日に軍のクーデターで王位を追われ、長男ゲオルギオス2世が後を継いだ。その後はイタリアで亡命生活を送り、1923年1月11日にシチリア島のパレルモで死去した。

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