伝記
サー・アーネスト・ヘンリー・シャクルトンは、1874年2月15日に生まれ、1922年1月5日に没した、三度イギリスの南極探検隊を率いた極地探検家で、南極探検の英雄時代の主役のひとりである。アイルランドのキルデア県で、十人きょうだいの二番目、息子二人のうちの兄として生まれた。父ヘンリーは軍人を目指したが健康問題で断念し、農業を始めた。1880年、六歳のとき、父は地主の暮らしに見切りをつけ、医学を学ぶためダブリンに家族を連れて移った。四年後には一家はロンドン郊外へ移り住んだ。それでもシャクルトンは生涯アイルランド出身に誇りを持ち、「私はアイルランド人だ」と言っていた。
小さな頃から貪欲な読書家で、十三歳でダリッジ・カレッジに入学したが、学問を「退屈」に感じていたと言われる。それでも最後の学期の成績は、クラス三十一人中五番目だった。十六歳のとき退学して船員になることを許され、帆船の水夫見習いとなって、海運会社に就職した。続く四年間で、地球の隅々を訪れ、手に職を付けた。1894年に試験に合格して三等航海士となり、1898年には世界中どこでもイギリス船を指揮できると認証された。同年、ユニオン=キャッスル・ラインに入り、「キーツやブラウニングの詩を朗読する」ような「普通の若い航海士とはかけ離れた」人物だったと同僚が書き残している。
1899年に第二次ボーア戦争が起こると、兵員輸送船に転属となり、1900年3月、ロンドンで組織中のディスカバリー遠征のスポンサーの息子セドリック・ロングスタッフと知り合った。その縁でロングスタッフの面接を受け、熱心さが認められて、責任者のクレメンツ・マーカムに推薦された。1901年2月、遠征隊の船ディスカバリー号の三等航海士に登用され、商船員の生活はここで終わった。ロバート・スコット率いる遠征で、1902年11月にスコット、ウィルソンとともに南極点の方向へ出発し、南緯82度17分に達して従来の記録を更新したが、犬は全て死に、三人は雪目や凍傷、壊血病に苦しんだ。シャクルトンは帰路で衰弱し、スコットは1903年に彼を補給船で本国へ帰すことを決めた。その後は王立スコットランド地理協会の理事となり、1904年にエミリー・ドーマンと結婚した。
1907年から1909年のニムロド遠征では、彼と三人の隊員は、探検史上最も極点へ接近し、南緯88度、南極点までわずか180キロの地点に到達した。これらの功績により、帰国後、エドワード7世からナイトに叙せられた。1911年12月にアムンセンの成功で南極点へのレースが終わると、南極点経由の南極大陸横断に関心を向け、1914年から1917年の帝国南極横断探検隊として実現させた。しかし船が流氷に閉じ込められ、隊が上陸する前に破壊された。隊員は海氷上にキャンプを張り、救命ボートでエレファント島に着き、最後にシャクルトンの最も有名な偉業である、サウスジョージア島までの嵐の海720海里の航海を行って脱出した。1921年にはシャクルトン=ローウェット遠征を率いて南極へ向かったが、サウスジョージア島に寄港中、心臓発作で死去した。遺体は妻の希望により同島に埋葬された。探検以外の人生は落ち着きがなく、投機的な事業は失敗して、多額の負債を抱えて死んだ。のちに忘れられたが、二十世紀後半に再発見された。
同じ年に亡くなった人物
- スラボリューブ・ペンカーラ (1922年没)
- Tullio Bozza (1922年没)
- トム・ワトソン (1922年没)
- エミール・フレイ (1922年没)
- レフ・シュガエフ (1922年没)
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