伝記
マイケル・コリンズは、1890年10月16日にアイルランドのコーク県に近いサムズクロスで生まれ、1922年8月22日に暗殺された、アイルランドの政治・軍事指導者である。独立運動を指揮し、アイルランド議会の財務大臣、アイルランド共和軍(IRA)の情報部長、国軍の司令官などを務め、英愛条約の交渉ではアイルランド側の代表の一員となった。一種独特のカリスマ性で生前から人気が高く、死後は独立運動の「殉教者」として英雄視された。墓碑には10月12日生まれと刻まれているが、伝記作者たちは10月16日で一致している。一族はもとはリムリック近くの郷紳の家だったが、土地の多くを奪われて没落し、小作農となっていた。145エーカー程度の農園を持っていたため、一般のアイルランド人よりはやや裕福だった。8人兄弟の末子、三男として生まれた。同名の父はインテリで、青年時代にアイルランド共和同盟(IRB)の運動に加わっていたが、のちに農業に専念した。
聡明な少年で、近所の鍛冶屋や、IRBのメンバーだった学校の校長に感化されて、アイルランドの自由獲得を熱望するようになった。背が高くて恰幅がよく、どんなスポーツもこなした。1906年、15歳で仕事を求めてイギリスへ向かい、ロンドンの郵便局に勤めた。1909年11月、プロテスタントの共和主義者の紹介でIRBに加入した。ロンドンで郵便局から金融関係に移り、後に役立つ財務の知識を身につけた。組織のなかで頭角を現し、10年たたずに若きリーダーと目された。
名を初めて世に知らしめたのは1916年のイースター蜂起である。26歳の若さで、組織運営の緻密な手腕と周到な戦略立案の才を評価されており、ダブリン中央郵便局の周辺で急進派の中心人物パトリック・ピアースらと戦った。しかし蜂起は、イギリスの正規軍が出動するとなすすべもなく壊滅した。コリンズは、蜂起前から、行き当たりばったりの方法には異議を唱えていた。のちの独立運動では「座り込んで狙い撃ちされる」ことを避けるよう仲間に勧め、ゲリラ戦術を駆使して、迅速に占拠してすぐ撤退し、最小の損害で最大の心理的打撃を与えることを狙った。逮捕されてウェールズの収容所に送られ、そこでも指導者としてのカリスマは増した。釈放後はシン・フェイン党に加わり、1917年10月には幹部で義勇軍の指導者となっていた。1918年の選挙では南コークの代表として当選したが、党の議員らは、ロンドンの議会に出席せず、ダブリンに「ドイル・エアラン」(アイルランド共和国議会)の創設を宣言した。1919年にはIRBの団長に選ばれ、IRAの情報部長となった。
1919年にはデ・ヴァレラの懇請を受けて財務大臣に就き、独立闘争の資金として「国債」を発行し、短期間で多くの資金を調達して、その財政手腕は評判となった。イギリス政府の要人暗殺を狙う特殊部隊をつくり、情報網を駆使して、IRAを指導した。1920年11月21日にはイギリス軍の情報将校らの暗殺を指令し、13人が殺害されたが、その午後に治安部隊が観衆に発砲して14人が死んだ。デ・ヴァレラは自分の地位を脅かされると考えるようになった。1921年、デ・ヴァレラが交渉に出席しないと宣言したため、ロンドンの交渉にはアーサー・グリフィスとコリンズが臨み、英愛条約が結ばれて、アイルランド自由国が誕生した。1922年、アイルランド内戦のさなか、コリンズは暗殺された。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・ハルヴァックス (1922年没)
- ルイージ・デンツァ (1922年没)
- エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ (1922年没)
- リマ・バレット (1922年没)
- マリー・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1849-1922) (1922年没)
同じ地域に関係する人物
- Finbarr of Cork (623年没)
- ブラック (歌手) (2016年没)
- ティム・セヴェリン (2020年没)
- トミー・ウンゲラー (2019年没)
- ピーター・シェーファー (2016年没)