伝記
ヨナタンは、ハスモン朝の指導者で大祭司を務めた人物である。別名をアッフスともいい、マカバイ戦争でユダヤ人を率いたユダ・マカバイの弟にあたる。マタティアの五人の息子のうち末子とされ、父や兄弟のユダ、シモン、ヨハネ、エレアザルとともに、紀元前167年にセレウコス朝への蜂起に加わった。父マタティアは蜂起が始まったばかりの同じ年に世を去り、まずユダが軍事の指導者となった。ヨナタンは兄の下で戦っていたが、紀元前160年(161年ともいわれる)にユダがエラサの戦いでセレウコス朝の将軍バッキデスに敗れて戦死すると、飢饉も重なる苦しい状況のなかで新たな指導者に選ばれた。
バッキデスの追及を受けたヨナタンは、兄弟のシモンとヨハネ、従う者たちとともにヨルダン川の東の荒れ地に退いた。荷物を預けられたヨハネは友好的なナバテア人のもとへ向かう途中でヤムブリの子らに襲われて殺され、荷物も奪われた。ヨナタンらはその報復として、メデバで花嫁の行列を襲い、300人を殺して財宝を奪ったと伝えられる。続いてヨルダン川でバッキデスと戦ったが、敗れてユダヤ人たちは川を泳いで東岸へ逃れた。のちにバッキデスは一度ユダヤを去り、ヨナタンはなおもギリシア風の文化に染まったユダヤ人への働きかけを続けた。二年後、アクラの守備隊の求めでバッキデスが戻ってくると、ヨナタンはゲリラ戦を重んじて正面衝突を避け、砂漠のベト・ホグラに拠って包囲された。やがてバッキデスが出兵を悔いているのを見抜くと、和平と捕虜の交換を申し入れた。バッキデスはこれに応じ、二度と戦わないと誓って軍とともに去った。ヨナタンはミクマシュに本拠を置き、「不敬虔な者や背教者」を国から取り除こうとした。
その後、セレウコス朝では王位をめぐる争いが起こった。デメトリオス1世と対立したエジプト王プトレマイオス6世らが、アレクサンドロス・バラスを支持したのである。ヨナタンはバラスを援助し、紀元前152年ティシュリには、エルサレムにおける大祭司・将軍・総督としての権限を認められて、次第に国としての自立を進めた。ただし、正統な家系に属さないマカベア家が大祭司職に就くことには批判があり、敬虔派のユダヤ教徒の反発も招いた。紀元前150年にはプトレマイオス6世と友好を築き、バラスの婚宴にも出席して贈り物をした。紀元前148年ごろ、デメトリオス2世がクレタ島からシリアに上陸すると、その配下アポロニオスと戦ってアシュドドを焼き払った。バラスとプトレマイオスが紀元前145年に相次いで死ぬと、デメトリオス2世がシリアを支配した。反乱の鎮圧のために求められてヨナタンが軍を送り、反乱軍を破ったものの、約束されたアクラ要塞などからの撤兵は実行されなかった。
そこでヨナタンは、デメトリオスに反旗を翻した将軍ディオドトス・トリュフォンが擁立したバラスの子アンティオコス6世を支援した。兄シモンは要衝ベテズルを押さえ、のちにヨッパも制圧した。ヨナタンはハゾル平野でデメトリオス軍と戦い、いったんは敗れたものの、祈って神の助けを求めたのち引き返して勝利を収めた。ローマやスパルタとの同盟も確立し、アクラ要塞の包囲を強めた。しかし紀元前142年、トリュフォンの計略でプトレマイスに捕らえられてしまう。後継の指導者となったシモンは、身代金とヨナタンの子二人を人質に出すことを認めたが、トリュフォンはヨナタンを解放しなかった。トリュフォンはバスカマでヨナタンを殺して埋めた。シモンは遺体を引き取ってモディンに葬り、父母と兄弟四人のためにヘレニズム風の装飾を施したピラミッドを建てた。
同じ年に亡くなった人物
- アンティオコス6世ディオニュソス (紀元前142年没)
同じ地域に関係する人物
- エリヤフ・ゴールドラット (2011年没)
- Chaswe Nsofwa (2007年没)
- ピンカス・サピア (1975年没)
- アブドゥッラー・ブン・サアド・ブン・アビー・サルフ (656年没)
- マルティン・ノート (1968年没)