伝記
カール・メンガーは、1840年2月23日に、オーストリア領ガリチアのノイザンデツ(現ポーランドのノヴィ・ソンチ)で、下級貴族の裕福な家庭に、弁護士の息子として生まれたオーストリアの経済学者である。経済学におけるオーストリア学派(限界効用学派)の祖であり、ジェヴォンズやワルラスらとともに、限界効用理論の創始者として、近代経済学の創始者の一人に挙げられる。兄マックスは政治家に、弟アントンは民法学者になった。ギムナジウムを卒業後、プラハ大学とウィーン大学で法律を学び、のちにクラクフ大学から博士号を受けた。1860年代に大学を離れ、レンベルク新聞社、続いてウィーン新聞社で、経済ニュースを取材する記者として働いた。記者として経済を取材する中で、古典派経済学の価格決定についての理論と、実際の市場での値動きとの不一致に気づいた。1867年から経済学の研究を始め、1871年に『国民経済学原理』を出版して、新しい経済学を打ち立てた。この本は、出版当時はほとんど無視されたが、その後、新古典主義革命に貢献したとの名声を得た。
1872年にウィーン大学法学部に私講師として招かれ、数年にわたり、財政学と経済学のゼミナールと講義を行った。出席する学生は年々増え、1873年には33歳で、経済理論の員外教授に迎えられた。1876年以降は、オーストリア皇太子ルドルフ大公の、経済学と統計学の家庭教師を務め、皇太子がヨーロッパ大陸やイギリス諸島へ旅行した際には、2年にわたり随行した。皇太子が1878年に匿名で出版した、オーストリアの上流貴族社会を非難する文書の執筆を手伝ったと見られている。皇太子との関係は、1889年に皇太子が自殺するまで続いた。1878年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は、彼をウィーン大学の経済学正教授に任命し、1900年には、宮中顧問官の称号と貴族院議員の地位が与えられた。
教授という安定した地位を得た彼は、1883年に『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』を出版した。この本は論争の嵐を引き起こし、メンガーと弟子たちは、ドイツ経済思想の本流から逸脱しているとして、歴史学派の経済学者から、嘲笑をこめて「オーストリア学派」と呼ばれるようになった。1884年に彼は『ドイツ国民経済学における歴史主義の誤り』という批判文書で応じ、歴史学派とオーストリア学派の間の方法論争が始まった。この間に、ベーム=バヴェルクやヴィーザーら、同じ考えを持つ研究者たちを引きつけた。1880年代の終わりには、オーストリアの通貨制度を改革する委員会の長に任命され、以後の10年間に、貨幣理論を革新しようとする論説を数多く著した。
メンガーは、限界効用を含んだ主観価値説を唱えた。人間は、財を使うとき、価値順位の高い目的にまず割り振るので、財が一単位失われるときは最低の目的、つまり限界単位が差し控えられ、それがその財の価値になる。これが限界効用理論であり、これで財のパラドックスは解決されたとする。また、貨幣の起源についても考察し、直接交換の問題から、販売可能性という概念を持ち出し、携帯性や稀少性、耐久性などに富んだ金や銀といった貴金属に集約されていくと説いた。ドイツのアカデミズムの状況への絶望が大きな原因になって、1903年に、研究に専念するために教授職を辞した。1921年2月26日に死去した。息子のカールは、のちに著名な数学者になった。蔵書の一部、約2万冊は、第一次世界大戦後、旧制東京商科大学によって購入され、現在は一橋大学の「メンガー文庫」として公開されている。
同じ年に亡くなった人物
- Vela Blagoeva (1921年没)
- エミール・カルタイヤック (1921年没)
- カール・フォン・ビューロウ (1921年没)
- ルイージ・マンチネッリ (1921年没)
- ヨセフ・ライナッハ (1921年没)
同じ地域に関係する人物
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- レオポルト・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ (1884年没)
- マリア・インマクラータ・フォン・ネアペル=ジツィリエン (1899年没)
- フェルディナント・ゲオルク・フォン・ザクセン=コーブルク=ザールフェルト=コハーリ (1851年没)
- ゲオルク・プールバッハ (1461年没)