伝記
ペータル1世は、1844年6月29日にベオグラードで、セルビア公アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチと、公妃ペルシダ・ネナドヴィッチの間に生まれた、セルビア王国の国王であり、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の初代国王である。10人きょうだいの5番目で、祖父は、第一次セルビア蜂起の指導者で、カラジョルジェヴィッチ家の始祖であるカラジョルジェである。生まれたのは、王宮が改修中だったため、商人の家で、三男の誕生は、あまり祝われなかった。1858年、ジュネーヴの高校へ行く準備をしていた14歳のとき、父が退位を余儀なくされ、ライバルのオブレノヴィッチ家が復位した。ペータルは家族とともに亡命し、国外生活の大部分をフランスで過ごした。1861年にジュネーヴからパリに移り、コレージュ・サント=バルブに入学し、翌年、フランスで最も名高い士官学校サン=シールに入った。1864年に卒業した後もパリにしばらく暮らし、写真や絵画を楽しみ、政治哲学の書を読んで、自由主義や議会主義、民主主義を学んだ。ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を、セルビア語に翻訳して出版している。
1870年から翌年の普仏戦争が始まると、偽名を使ってフランス外人部隊に加わった。1870年12月のオルレアンの第二次戦闘や、翌1月のヴィレルセクセルの戦いに参加し、その働きで、レジオン・ドヌール勲章を受けた。その後、プロイセン軍に捕らえられたが、脱走して前線に戻った。1875年にボスニアの反乱から大東方危機が始まると、バルカンに戻り、「ペータル・ムルコニッチ」という偽名で、約200人のゲリラ部隊を率いて、オスマン帝国と戦った。1883年に、モンテネグロ王ニコラ1世の王女リュビツァ(セルビア語名ゾルカ)と結婚し、1884年にイェレナ王女、1886年にミレナ王女、1887年にジョルジェ王子、1888年にアレクサンダル王子、1890年にアンドレイ王子の、5人の子を儲けた。ミレナ王女は1歳で、アンドレイ王子は、出産のときにゾルカ妃とともに夭折した。
1903年、セルビア王アレクサンダル1世と王妃が軍事クーデターで殺害されると、ペータルはセルビアに戻り、同年6月に国王に戴冠した。親オーストリア=ハンガリーの路線をとったアレクサンダルに対し、親ロシアのペータルは、南スラヴ統一の志向で知られた。西欧型の立憲君主制の創設を目標に、セルビアの自由化を試み、政治的自由や報道の自由が大いに行使される治世は、「黄金時代」とも呼ばれる。バルカン戦争では、セルビア軍の最高司令官を務めたが、病気のために引退し、行政権は息子のアレクサンダルに譲られた。長男ジョルジェ王子は法定推定相続人だったが、かっとなって使用人を蹴って殺害する事件を起こし、1909年に王位継承権を放棄した。第一次世界大戦中には、軍隊視察のため時折塹壕を訪れ、1915年には、71歳で、訪問中にライフル銃を取り、敵兵を撃つ事態に巻き込まれたことがある。1918年12月1日に、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国の国王となったのが、公に姿を現した最後であった。1921年8月16日にベオグラードで崩御し、77歳であった。セルビアで最も人気のある指導者のひとりとして記憶されている。
同じ年に亡くなった人物
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- Segar Bastard (1921年没)
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