HISTORICAL PERSON · 1920年没

エドモンド・バートン

オーストラリアの初代首相。1890年代の連邦運動で最大の貢献をし、1901年に首相に就任。1903年に辞して高等裁判所の初代判事の一人となった。

生涯
1920年没
死亡地
オーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ州 / メドローバス)
出生地
オーストラリア連邦(グリーブ (ニューサウスウェールズ州))
出典
世界地図
オーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ州)

伝記

サー・エドモンド・バートンは、1849年1月18日、シドニー近郊のグリーブで、株式仲買人ウィリアム・バートンとメアリー・ルイーズの9番目の子として生まれたオーストラリアの政治家、弁護士、裁判官である。初代のオーストラリア首相であり、オーストラリア高等裁判所の創設時の裁判官でもあった。愛称は「大酒飲みトビー」。フォート・ストリート高校とシドニー・グラマースクールで教育を受け、後者で2度、生徒会長を務めた。ここで、生涯の長い友で、のちに同僚の最高裁判事となるリチャード・オコーナーと出会った。シドニー大学では古典学で首席となり、大学勲章を得て卒業した。1871年に法廷弁護士となり、1870年のニューカッスルへのクリケット旅行で出会ったジェーン・メイソン・ロスと、1877年に結婚した。

1879年には、ハリス男爵が率いるイングランド・チームとニューサウスウェールズ州のチームがクリケットの試合をした際に、審判を務めた。別の審判の判定が論議を呼び、群衆が競技場になだれ込んで、クリケットの国際試合で世界初の暴動となった。世評では、この状況を静めた若きバートンの応対が、のちに州の下院議席を勝ち取る一助となったという。1876年にはシドニー大学選挙区から州議会下院に立候補したが、49票対43票でウィリアム・ウィンディヤーに敗れ、1877年にも失敗した。1879年8月に当選し、1880年からウェリントン選挙区、1882年11月から1887年1月までイースト・シドニー選挙区の議員を務めた。1882年には立法議会の議長になった。1889年1月、保護貿易党のジョージ・ディブスにより州の司法長官に任命されたが、この政府は同年3月までしか続かなかった。

バートンは、ヘンリー・パークスのテンタフィールド演説の後に重大な政治課題となった、オーストラリア連邦の創設の、早くからの支持者だった。1891年3月のオーストラリア憲法制定会議で、連邦化への明確な支持を表明し、枢密院への上告の権利を撤廃すべきだと主張した。憲法草案の作成にも参加した。保護貿易論者は連邦化に熱心でなかったため、1891年6月に上院を辞任し、イースト・シドニーで出馬して勝った。1891年10月にパークスが勢力を失うと、パークスはバートンに、ニューサウスウェールズの連邦化運動の指導者の地位を引き継ぐよう説得した。バートンは、連邦制決議が議会で討議されることを条件にディブス政府で再び司法長官を引き受けたが、決議は議会の議事日程に載らず、辞任した。1892年12月にはコロワとオルベリーの集会で、国民に連邦化を広めるキャンペーンを始めた。

1894年にランドウィックで再選を目指して落選し、1895年の選挙には、議員の無給の期間も大家族を養う必要があったので立候補しなかった。それでも、1893年1月から1897年2月まで連邦化のキャンペーンを続け、ニューサウスウェールズの300近い集会所で挨拶した。「歴史上初めて、我々は大陸のための国民と、国民のための大陸を持っている」と宣言し、1897年までに「全オーストラリアで認められた連邦化運動の指導者」として尊敬された。1897年には、連邦化を提案する憲法会議の代議員に、ニューサウスウェールズから最多得票で選ばれた。憲法草案の大部分を書いたのはサミュエル・グリフィスだったが、バートンはそれを協議会で通す政治的指導者だった。1901年の連邦選挙で選ばれて初代首相に就任し、1903年に首相の座を辞して高等裁判所判事となった。1920年1月7日に没した。

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