伝記
ハスドルバル・ボエタルコスは、第三次ポエニ戦争(紀元前149年から前146年)で戦ったカルタゴの将軍である。その生涯についてわかっていることは少ない。「ボエタルコス」はカルタゴの官職名で、正確な職務ははっきりしない。名はギリシア語で「補助」を意味する語に由来するとみられ、カルタゴの傭兵軍を率いる立場を示すのではないかと考えられている。ボイオティア連邦の指導者を指すギリシアの称号とは関係がない。補助部隊を指揮する軍職だったともされる。
第二次ポエニ戦争は前201年に終わった。その講和は、ローマの許可なしにカルタゴが戦争をすることを禁じていた。ローマの同盟者であるヌミディアのマシニッサはこれを利用して、カルタゴの領土を襲い、奪っていった。前149年、カルタゴは条約に背いて、ハスドルバルの率いる軍をマシニッサに差し向けた。戦いはオロスコパの戦いで終わり、カルタゴは敗れて、ハスドルバルは軍とともに降伏したという。この将軍は、宣戦布告の直後にトゥネス(現在のチュニス)付近でマシニッサに敗れたハスドルバルと同じ人物かもしれないとされる。
ハスドルバルは生き延び、前146年のカルタゴ攻囲戦でカルタゴ軍を率いた。軍は十分に訓練され装備も整っていたとされ、ローマ軍はこの都市の抵抗を破るのに苦しい戦いを強いられた。しかし港の区域と下町がローマ軍に占領されると、彼はビュルサの丘にあるエシュムンの神殿にこもり、長く防戦した。やがて、勝敗の行方がもはや明らかになったころ、彼はカルタゴ軍の隊列を離れ、スキピオ・アエミリアヌスに降伏した。このスキピオ・アエミリアヌスは、ローマの執政官格の司令官であり、カルタゴの敗北によって戦争は終結した。
ポリュビオスによれば、降伏したハスドルバルの妻は夫を呪い、二人の息子ののどを切って燃える神殿に投げ入れ、自らも炎に身を投じたという。妻は身を投じる前に、ローマ人に向かっては繁栄を祈り、戦争の権利を行使しているだけだと述べる一方、祖国と神々、妻子を裏切ったハスドルバルを罰してくれるようカルタゴの神々と彼自身に祈ったと伝えられる。この話は、のちにディドの犠牲になぞらえられた。一方で、この絶望あるいは臆病の印象は、戦争中の彼の態度とは合わず、ローマが戦争を事後に正当化し、道徳的に語るための宣伝だったとの見方がある。ポエニの不誠実さを説くローマの言説に沿って、妻に呪われるハスドルバルの姿が描かれたというのである。
ハスドルバルはローマに連行され、スキピオの凱旋式で見せ物にされたが、のちにイタリアで平穏に暮らすことを許されたと伝えられる。その後のことは知られていない。軍人としての力量が疑われたことはなかったともいわれるが、同時代のスキピオやマシニッサの陰に隠れてしまった人物である。
同じ年に亡くなった人物
- Shanakdakhete (紀元前160)
- アンティマコス1世 (紀元前160)
- ガイウス・カッシウス・ロンギヌス (紀元前96年の執政官) (紀元前 160年(推定))
- カナーダ (紀元前 160年(推定))
- グナエウス・マッリウス・マクシムス (紀元前 160年(推定))
同じ地域に関係する人物
- エドワード・ドッドウェル (1832年没)
- チェーザレ・ザヴァッティーニ (1989年没)
- テレスフォルス (ローマ教皇) (136年没)
- ピエトロ・ジェルミ (1974年没)
- ブルーノ・マッティ (2007年没)