伝記
クィントゥス・マルキウス・ピリップスは、紀元前229年頃に生まれ、紀元前164年まで名が見える共和政ローマの政務官である。紀元前186年と紀元前169年に執政官、紀元前164年に監察官を務めた。平民(プレプス)のマルキウス氏族の出身で、ピリップスという家族名を持つ者で最初に執政官となったのは紀元前281年の同名の人物で、これが祖父と推察されている。生年は、リウィウスが紀元前169年の出来事に関して「彼は60歳を超えていた」と記したことから割り出されている。
資料に初めて現れるのは紀元前188年で、法務官としてシキリア属州を統治した。翌年の選挙で当選し、紀元前186年の執政官となった。就任直後に迫られたのがバッカス祭事件の調査である。バッカス教の信者が各地で増え、祭事に乗じて偽証や印章・遺言書の偽造、毒殺や殺人まで行われていたとされ、元老院は同僚のスプリウス・ポストゥミウス・アルビヌスとともに調査を命じた。二人は罪を犯した信者を処刑し、罪のない者も拘束した。処分された者は7000人以上にのぼる。その後リグリアに向かったピリップスはアプアン族を攻めたが、山中の渓谷で奇襲を受けて敗れ、4000人以上が戦死した。敗北を隠そうとして現地にとどまり、年末までローマに戻らなかったが、結局は知れ渡り、戦場は「マルキウス峠」と呼ばれた。
紀元前183年には、第二次マケドニア戦争後の条約をピリッポス5世が守っているか確かめるため、大使としてマケドニアに派遣された。帰国後は元老院に、王はローマとの敵対をやめないだろうと報告し、アカイア人については傲慢で何事も自分たちで決めようとすると述べた。紀元前180年にはシビュラの書担当十人官に就任し、仲間の多くが亡くなるとその第一人者となった。
紀元前172年、新たなマケドニアとの戦争が避けられなくなると、再び使節の長としてバルカン半島に赴いた。ピリップスはセッラヌスとともにエペイロス、アエトリア、テッサリアを回って、ローマに味方するよう説いた。ペーネイオス川の岸ではマケドニア王ペルセウスと会談した。ペルセウスは旧来の個人的な関係を頼って友好の回復を望んだが、ピリップスは和平の見込みがあるかのように見せ、ローマへ使者を送って交渉を続けるよう勧めて時間を稼いだ。リウィウスによれば、当時のローマは戦の備えができておらず、ペルセウスが和平の期待に惑わされなければ、ローマには最悪の状況になっていたという。その後ボイオーティアでは同盟の解散を説き、冬にローマへ戻ると、一部の議員から成果がないと非難されたが、多くは活動を認めた。
紀元前169年に二度目の執政官となり、マケドニア戦争を担当した。前任者たちは敗れ、軍には脱走者が多かった。ピリップスは5000人の兵を率いてアカルナニアに渡り、山中を行軍して敵の攻撃を受けたが、高齢で非常に太っていながら軍務をこなし、軍を率いて山を越え、マケドニアの平地へ下った。ペルセウスは慌てて艦隊を焼き、国庫を海に沈めるよう命じたという。だが補給が難しく、それ以上は進まなかった。冬営ののち、紀元前168年の初めにルキウス・アエミリウス・パウッルスへ軍を引き渡し、パウッルスがペルセウスを破った。紀元前164年には、そのパウッルスと並んで監察官を務め、人口調査では337,452人を数え、元老院から除名されたのは3人にとどまった。この年を最後に名は見えなくなる。ミュンツァーは、軍事では平凡だが当代随一のローマ外交官の一人と評している。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・オクタウィウス (紀元前165年の執政官) (紀元前160年代没)
- クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス (紀元前 160年(推定))
- ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス (紀元前160年没)
- ラオディケ (ミトリダテス6世の妹かつ妻) (紀元前 160年(推定))
- ガイウス・ポルキウス・カト (紀元前 160年(推定))
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