伝記
平知盛は、平安時代の末期の平家一門の武将で、平清盛の四男である。1152年、清盛が35歳のとき、継室の平時子を母として生まれた。同母の兄に平宗盛、同母の妹に平徳子がいる。世に新中納言と呼ばれた。1159年正月、8歳で従五位下となり、同じ年の平治の乱で清盛が勝つと、一門とともに昇進した。翌1160年2月には武蔵守となり、その後再び任じられて8年間その職にあった。1180年以降は武蔵国の知行国主として長く同国を支配し、多くの平氏の家人を得た。兄の重盛や宗盛は後白河院に対して煮え切らなかったため、清盛は知盛に期待をかけ、25歳のころには「入道相国最愛の息子」と呼ばれていた。1177年正月に従三位となった。1178年10月に妹の徳子が言仁親王(のちの安徳天皇)を産むと、翌年には高倉天皇の第2皇子である守貞親王の養育を任され、妻の治部卿局が乳母になった。1179年に重盛が没すると宗盛が棟梁となり、知盛は弟の重衡とともに宗盛を助けた。
1180年2月、安徳天皇の即位とともに御厩別当となった。5月には重い病にかかったが、まもなく治った。以仁王の挙兵では、5月21日に園城寺を攻める大将軍の一人となった。6月に福原への遷都が強行され、8月に源頼朝が挙兵して、10月の富士川の戦いで平氏軍は敗れた。清盛は半年で都を京へ戻し、知盛は宗盛とともに安徳天皇を守って京に帰った。12月には、甥の平資盛と大将軍として出陣し、京の近くの反乱軍を鎮めた。1181年2月、東国の追討を命じられたが、病で京に戻らざるをえず、大将は重衡に替わった。閏2月4日に清盛が没した。遺言は、一門の最後の一人まで頼朝と戦えというものであった。
1183年7月、義仲らの反乱軍を迎え撃つため、知盛は重衡とともに2,000騎で勢多に向かった。しかし7月24日、後白河法皇が比叡山に逃れたため、平氏一門は25日に六波羅と西八条邸を焼き払い、安徳天皇や三種の神器とともに都を落ちた。九州の大宰府に入ったが、攻撃を受けて退き、10月に四国の屋島に入った。屋島に本営を置くと、知盛は全軍の総指揮官として態勢を立て直し、閏10月に水島の戦いで義仲を破り、11月の室山の戦いでも源行家を破った。京の奪還のため、すぐ上洛しようと訴えて、それを止める宗盛と口論になったという。
1184年2月7日の一ノ谷の戦いで、知盛は大将軍として生田の森に陣を敷き、源範頼の軍を迎え撃ったが、源義経の軍の逆落としを受けた平氏軍は混乱して、海上に逃れた。この戦いで嫡男の知章をはじめ多くの有力な武将を失い、弟の重衡は捕らえられた。その後、知盛は彦島に軍営を置き、九州の兵を率いて門司関を固め、半年にわたって追討軍の九州と四国への上陸を阻んだ。1185年2月19日、屋島の戦いで宗盛は、義経の急襲を受けてほとんど戦わずに安徳天皇とともに海上へ逃れた。3月24日、壇ノ浦の戦いで、田口成良ら四国と九州の武士が寝返り、追い詰められた一門は入水を選んだ。安徳天皇や二位尼らが入水し、平氏の滅亡を見届けた知盛は、乳兄弟の平家長と手を取り合って海へ身を投げた。数え年で34であった。『平家物語』は、知盛が鎧を二枚着て重しとし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したと伝える。妻の治部卿局は、守貞親王とともに生き残って都へ戻った。36年後、承久の乱で後鳥羽院が敗れると、守貞親王の皇子が後堀河天皇に立てられ、守貞親王は後高倉院として院政を行った。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハネス・キンナモス (1185年)
- 安徳天皇 (1185年没)
- ベアトリス・ド・ルテル (1185年)
- リクサ・シロンスカ (1185年没)
- イブン・トファイル (1185年没)