伝記
サー・ウィリアム・クルックスは、1832年6月17日にロンドンで生まれ、1919年4月4日に没したイギリスの化学者・物理学者である。タリウムの発見と陰極線の研究で業績を残した。裕福な仕立屋で不動産投資家だった父ジョゼフの、第2の妻メアリーとの間に生まれた長男で、8人が成人した子の一番上だった。父は先妻との間の二人の息子に仕立屋の家業を継がせたため、ウィリアムは自分の進路を自由に選ぶことができた。1848年、16歳のとき、王立化学大学(現在のインペリアル・カレッジの化学科)に入学し、ドイツから来たアウグスト・ホフマンのもとで有機化学を学んだ。入学した最初の年の授業料は25ポンドで、自分で器具や高価な薬品の一部をそろえなければならなかった。最初の年の終わりに奨学金を得て、2年目の学費にあてた。2年目の終わりにホフマンの助手となり、実験の実演や研究、商業分析を手伝って、1851年10月には上級助手に昇進し、1854年までその地位にあった。ホフマンを敬愛したが、その関心の中心の有機化学は共有しなかった。
写真と光学への関心から、父は1851年に自宅の庭に実験室を建ててくれた。最初に取り組んだ独自の研究は、有機化学ではなく、セレンの新しい化合物で、1851年に最初の論文になった。1854年にはオックスフォードの天文台で気象の連続記録に写真の技術を応用し、1855年にチェスターの教員養成学校の化学の講師となった。1856年4月、ダーリントンのウィリアム・ハンフリーの娘エレンと結婚した。同校の職員は独身が条件のため、辞職しなければならなかった。夫妻には6人の息子と3人の娘が生まれ、長女は40年間、父の助手として働いた。結婚してロンドンに住み、独立した写真化学者として家計を支えようとし、1859年に科学雑誌『ケミカル・ニュース』を創刊して、長く編集長を務めた。この雑誌でファラデーの講演を載せ、1860年に編集した本にまとめた。
グスタフ・キルヒホフの分光学の研究に刺激されて、自らも分光学に転じた。1861年に、分光分析によって硫酸工場の残留物からタリウムを発見した。1863年に王立協会のフェローに選ばれた。1875年ごろから、陰極線(放電現象)に興味を持ち、従来より真空度の高い放電管を作って研究した。この管はクルックス管と呼ばれ、その中に羽根車を置き、陰極線をあてて回転させた実験は有名である。実験から、陰極線が帯電した微粒子からなることを明らかにした。この微粒子はその後、電子と名づけられ、トムソンやミリカンらによって性質が明らかにされた。クルックスは、クルックス管で実験をすると、周囲の写真乾板が露光する現象があることを認識していたが、深く追求しなかったため、X線発見の機会を逃した。15年後、同様の現象を見出したレントゲンが、X線を発見した。
物理学にとどまらず、テンサイからの砂糖製造や、フェノールの防腐作用の発見(1866年)、ダイヤモンドの起源、都市排水など、様々な研究を行った。1860年代の後半から、心霊現象の研究を始めた。1871年に霊媒ホームを調べ、トリックの片鱗も見出せなかったと発表し、フローレンス・クックという17歳の女性霊媒も研究した。クックの起こす現象は本物であると発表したため、多くの科学者は、騙されたか発狂したのだと考えた。心霊現象研究協会の創設メンバーに加わり、1896年には会長となった。1897年にサーの称号を受け、1913年には王立協会の会長に就任した。
同じ年に亡くなった人物
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- ヴィクトル・セガレン (1919年没)
- ウイリアム・オスラー (1919年没)
- アディ・エンドレ (1919年没)
同じ地域に関係する人物
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