HISTORICAL PERSON · 紀元前170年代没

ルキウス・コルネリウス・レントゥルス (紀元前199年の執政官)

共和政ローマの政務官。紀元前206年にスキピオからヒスパニアに残され、反乱部族を破って小凱旋式を認められた。紀元前199年に執政官となり、前196年にはアンティオコス3世との仲裁の使節に加わった。

生涯
紀元前170年代没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
古代ローマ
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ルキウス・コルネリウス・レントゥルスは、紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半にかけての共和政ローマの政務官で、紀元前199年に執政官(コンスル)を務めた人物である。没年は紀元前173年とされ、疑問符を付けて記されることもある。

出身はエトルリアに起源を持つパトリキ(貴族)のコルネリウス氏族で、この氏族はローマで最も強力で、多くの枝族を持っていた。コグノーメン(家族名)のレントゥルスは、レンズ豆を意味する語に由来すると考えられている。父は紀元前237年の執政官ルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌス、祖父は紀元前275年の執政官で、凱旋式を挙行した同名の人物である。兄は紀元前201年の執政官グナエウス・コルネリウス・レントゥルスで、同名の人物が記録にしばしば現れるため、経歴の細部には不確かな点が多い。紀元前211年の法務官でサルディニア属州の総督、紀元前209年にマルケッルスの副官を務めた人物、紀元前205年の上級按察官が、いずれも本人かどうかは意見が分かれる。紀元前204年に兄と共に上級按察官を務めたとする説もあり、それは執政官になるための経歴を整える目的だったと推測されている。紀元前213年には、死去した神官の後任としてシビュラの書担当十人委員に選ばれており、これも本人と考えられている。この人物は紀元前173年に死去し、後任にアウルス・ポストゥミウス・アルビヌス・ルスクスが選ばれた。

名がはっきり現れるのは第二次ポエニ戦争中の紀元前206年である。プブリウス・コルネリウス・スキピオ(後のアフリカヌス)がローマに戻る際、レントゥルスとルキウス・マンリウス・アキディヌスの二人を執政官代理の権限でイベリア半島に残した。どちらも執政官の経験はなかったが、民会が任命を認めたと思われる。スキピオは年末の選挙までにローマへ戻るため、現地の部族と寛大な講和を結び、守備部隊も置かず、武装解除も求めず、捕虜もとらなかった。その結果、翌紀元前205年に一部の部族が反乱を起こした。リウィウスによれば反乱軍は3万4千の兵を持っていたが、レントゥルスとアキディヌスに敗れ、賠償金を払い、人質を差し出した。

イベリアでのレントゥルスの軍事指揮権は何度も更新され、ローマに戻ったのは紀元前200年である。凱旋式を求めたが、元老院は勝利の価値は認めつつも、独裁官、執政官、法務官を経験していない将軍が凱旋した前例はないとして退け、代わりに小凱旋式を認めた。紀元前199年、平民のプブリウス・ウィッリウス・タップルスと共に執政官に選ばれた。タップルスは第二次マケドニア戦争のためバルカン半島へ向かい、レントゥルスはイタリアを担当した。ガリア・キサルピナで敗れた法務官グナエウス・バエビウス・タンピルスに代わって軍の指揮を執ったが、年末の選挙のためローマに戻る必要があり、戦況を好転させることはできなかった。翌紀元前198年は、その年の執政官が到着するまでガリアに残った。

紀元前196年には使節として、セレウコス朝シリアのアンティオコス3世とプトレマイオス朝エジプトの仲裁に派遣され、フラミニヌスを補佐する他の使節と合流した。リシマキアで会談が行われたが、アンティオコスはローマの要求を拒み、エジプトとはすでに講和したと述べた。レントゥルスはアレクサンドリアに行くことを計画し、実際に訪れたと思われる。これが記録に残る最後の大きな活動で、彼は紀元前173年ごろに世を去ったとされる。

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