HISTORICAL PERSON · 1918年没

オットー・ワーグナー

オーストリアの建築家・都市計画家。「芸術は必要にのみ従う」と唱え、機能性・合理性を重視する近代建築の理念を表現した。ウィーン美術アカデミー教授でウィーン分離派にも参加し、代表作にウィーン郵便貯金局。

生涯
1918年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
オーストリア共和国(ペンツィング)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

オットー・ワーグナーは、1841年7月13日にウィーン郊外のペンツィングで、公証人の家に生まれたオーストリアの建築家、都市計画家である。新しい造形をめざしたウィーン分離派の中心人物の一人で、「芸術は必要にのみ従う」と主張し、機能性と合理性を重視する近代建築の理念を表現した。建築作品のほとんどはウィーンにある。父ルドルフは5歳のときに肺病で亡くなり、母スザンネは遺産を元手に賃貸住宅を建てて、その設計を建築家ハンゼンに依頼した。1857年から1859年にウィーンの工科大学で学び、ハンゼンの勧めで1860年から1861年に、新古典主義建築の中心地だったベルリンの建築アカデミーに移った。ウィーン美術アカデミーに進学し、1863年に卒業した。同年に、ウィーン市立公園のクアサロンの設計競技に応募して一等賞を得たが、実際には案を大きく改変されて建設された。

1862年に22歳で、リングシュトラーセ沿いの建築を手がけたルートヴィヒ・フォン・フェルスターの事務所に入り、1880年ごろまで、その大通りを歴史主義的な建築の見本とする仕事に携わった。当時は、公共建築が数多く建てられ、歴史主義的な建築観が主流だった。初期の作品も古典主義的で、自分の様式を「ある種の自由なルネサンス」と述べていた。ブダペストのルンバッハ通りのシナゴーグが最初の主要な作品で、1868年に27歳で設計競技に選ばれた。母の意向で1863年に結婚し、1880年に母が死去したあと離婚して、1881年に18歳下のルイーゼと再婚した。1880年代には、自分が建築家であると同時に出資者でもある建物を手がけ、連邦銀行や最初のワーグナー別邸を設計した。

1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンの都市計画の準備に取りかかった。同年以降、交通施設・ドナウ整備委員会にも参画し、ドナウ運河の水門、環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁などの計画に関わった。1894年にハゼナウアーの後任としてウィーン美術アカデミーの教授に就任した。1897年に画家クリムトを中心にウィーン分離派が結成されると、教え子のオルブリッヒやホフマンが参加し、やがてワーグナー自身も加わった。マジョリカハウスやカールスプラッツ駅などの作品では、歴史主義を離れ、アール・ヌーヴォー的な傾向が強まった。しかし1905年、内部の対立から、クリムトらとともに分離派を脱退した。

この前後には、フランツ・ヨーゼフ皇帝博物館の設計に執念を燃やした。1900年にカールスプラッツへの建設を提案し、翌年の設計競技でワーグナー案を含む8案が入賞したが、反対派のために紛糾した。1910年には世論に訴えようとして、予定地にファサードの実物大模型を造ったが、大きな反響は得られず、博物館は実現しなかった。後期の代表作には、ウィーン郵便貯金局(1906年から1912年)やシュタインホーフ教会堂(1907年)がある。1912年、71歳でアカデミーを停年となり、1914年まで客員教授として学生を指導した。1915年に妻が死去し、第一次世界大戦中は失意のうちにあった。1918年4月11日に没した。1980年代には、500シリング紙幣の肖像に採用された。

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